誤読ノート350  「風を友とする」 「文学的思考へのいざない」(

誤読ノート350  「風を友とする」 「文学的思考へのいざない」(大河原忠蔵、2000年、東北大学出版会)

「ぼくはね、鳥が枝をパッと飛び立つのを見ると、未来を感じます」。

丸山薫という詩人が大河原さんにこう語ったそうです。この言葉について大河原さんは次のように述べています。「私達は鳥が枝を飛び立つのを見ると、糞でもかけられるのではないか、と思う。詩人は違う。未来を感じる、という」「鳥が枝からパッと飛び立つという日常の些細な場面に、創造的に生まれた文学的表現である」(p.35)。彼は丸山のこの言葉を自分たちの墓石に刻んだそうです。

本著の題名にある「文学的思考」とはこのような創造的表現を産む思考のことなのでしょう。大河原さんは「詩人は違う」としていますが、じつは、彼自身、丸山からこの言葉を聞く何十年も前に、空の鳥を見て文学的思考をしていたことが巻末で明らかになります。

大河原さんは文章を見る二つの観点を挙げています。「場面が生き生きと書けているか」「その場面の意味が鋭くかけているかどうか」(p.53)。つまり、文学的思考/表現には、生き生きとした場面描写とそこに託す鋭い意味が必要だということではないでしょうか。これは、文章を書いたり、人前で語ったりするための、大事なヒントだと思いました。

さて巻末です。大河原さん二十歳の時です。「私はこの戦車爆破の特攻訓練のある日、草むらに伏せた時、目の前の至近距離に小さい白い花を見つけた」「私はその花の名前を知らなかった。いずれ野の花である。その白い野の花の存在が私にとって、非常に切実なもののなった。その花は私に自分の内部に命があることを、痛切に自覚させてくれた。花の命と自分の命が一つになった」「日本兵が玉砕した島にも、野の花は咲いていただろう。空を鳥がとんでいたかもしれない」「そこで花や鳥は、もはや単なる花や鳥ではなく、限界状況に置かれた人間の心の支え手になっているのである」「自分が命を失い、されこうべになったら、もはや自分のそばの野の花に語りかける力はない。ただ吹いてくる風を、自分を訪ねてくれる唯一の友として迎えるだけである」(p.262)。

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」

新約聖書に出てくるイエスの言葉です。

「これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。 わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む」

旧約聖書の言葉です。「霊」は「風」と訳すこともできます。

二十歳の大河原さんは「特攻」の死に直面させられたとき、かつて母校の明治学院で学んだ聖書の言葉を思い出したのでしょうか。

洗礼を受けられたのは晩年になってからと聞いていますが、少年のころから、聖書の文学的表現に心をつかまれた人生だったのではないでしょうか。

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