(22) 「枯れても枯れてもまた潤してくれる泉」

 春から夏にかけて、庭は放っておけば、雑草だらけになってしまいます。抜いても抜いても、また生えてきます。秋になり冬になり、すっかり枯れてしまったと思っても、春が来れば、また緑を濃くし始めます。庭の土には、草を次から次に芽生えさせる生命力があります。

 落葉樹も同じです。せっかく咲かせた花もやがて土に落とし、秋になればきれいに色づけした葉も舞い落とし、冬は無彩で風に耐えて過ごしますが、春になれば、また、葉を芽吹かせ、種によってそれぞれのときに、色とりどりの花を咲かせます。木の内側には、毎年、葉を枝の外へ押し出し、花を開かせるエネルギーが充ちています。

 草を生え出させつづける庭や、一年ごとに葉や花を芽吹かせる木は、まるで、水をたやさない泉のようです。庭は草を、木は葉や花を、まるで、湧き出しているかのようです。

 子どもたちは、朝起きて、学校で何時間も机の前で過ごし、放課後は部活で体を動かし、夜は塾に行き、一日が終わるころはくたくたになってベッドに倒れ込みますが、一晩寝て、また、朝が来ると、噴水が昇るように、まっすぐ上がり、あらたな一日に臨みます。

 悲しみとそれに伴う愛しさを忘れないように、瞳を乾かしてしまわないように、涙は、とめどなくあふれます。

 正義の重みと暴力への否を覚え続けるために、怒りは、ことあるごとに湧き出てきます。

 人生の喜びと楽しみを思い出させるために、笑顔はあらたな笑顔を誘いだします。

 聖書によれば、イエスは、「生きた水を与える」「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言いました。

 イエスにとって、神とは、わたしたちの中に絶えず湧き出てくるいのちの力のことではないでしょうか。わたしたちが倒れても、もう起き上がれないと思っても、うちひしがれても、それでも、そんなわたしたちを復活させる新鮮な清水、それをたえず湧き出すたましいの泉。イエスは、それを神と呼んだのです。