(83)  「わたしたちは神から愛を受け、それを他の人とわかちあいます」

 誰かに愛されたことのある人はこんどは他の誰かを愛するようになる、と聞いたことがあります。方程式のようにいつもそうなるとは限らないでしょうが、たしかに、誰かにやさしくされると自分も他の人に対してやさしい気持ちがもてる、という経験は一度や二度ではないでしょう。

 わたしたちは一日を生きるために食事でエネルギーを蓄えておく必要があります。体力だけでなく、心のエネルギーも同じです。受け入れられる、承認される、理解される、好かれる、愛されるなどして、満たされると、それがしばらくの間の力になります。

 母の胎にいるとき、わたしたちはへその緒を通して命の糧を受けていました。やがて、食糧や周りの人の言動や関係から、さらには、友人や教師や書物、音楽や演劇や映画などの芸術からも、日々を生きる力を受け取るようになります。

 そして、今度は、わたしたちの言葉や行動、存在が、他の人に力をもたらすようにもなります。わたしたちが生きている、ここにいるという存在そのものが、気づかないかも知れないけれども、少なくともひとり以上の喜びとなり力となっているのではないでしょうか。わたしたちは、愛を受けて、愛を与えるのです。

 聖書によりますと、イエスは、自分のことを「ぶどうの木」、弟子たちをその「枝」と言い表しました。ぶどうの幹は、根や葉から受けた水分、養分を何本もの枝に届けます。それは生命そのものと言っても良いでしょう。そして、枝はそれをもらって、おいしいぶどうの実を結びます。

 それと同じように、イエスは神から受けた愛、あるいはいのちを、こんどはわたしたちにもたらし、わたしたちはそのいのちによって生かされ、その愛によって他の人を愛することができるようになるのではないでしょうか。
 
 神とはいのちの根源、いのちの源泉です。その泉から湧き出る新鮮ないのちを日々いただいていることを、わたしたちはときおり思い出そうではありませんか。

ヨハネ15:1-17)