(4) 「目に見えない幸せを感じるとき」

 先日、おいしいと評判の佐賀牛を一キロいただきました。そこで、お友達をひとりお招きすることにしました。家族四人でいただけば250グラムずつですが、もうひとり加わり、200グラムずつに減ってしまいました。

 けれども、その代わりに、増えたものがあります。楽しさです。家族だけでなく、そこに親しいお友達も来てくれることで、会話もはずみ、楽しい時間を過ごすことができました。さらには、お友達がアイスクリームを持ってきてくれたので、とてもゆたかなテーブルになりました。

 食べ物や飲み物は目で見たり、舌で味わったりすることができます。会話や笑顔も、耳で聞いたり、目で見たりすることができます。しかし、目には見えず、耳には聞こえず、舌では味わうことのできないものをも、食べ物や飲み物、会話や笑顔は、わたしたちのこころに満たしてくれます。

 楽しさ、喜び、なごみ、くつろぎ、一体感、愛、わかちあい、平和というようなものは、それ自身は、目には見えませんし、耳には聞こえません。しかし、食事や音楽や映像、人と人との交わりなど、目に見え、聞こえてくるものを通して、それは伝わって来ます。見えなくても、聞こえなくても、それは、たしかにそこにあるのです。

 聖書によりますと、イエスは弟子たちや普通の人びとと、よく食事をしました。イエスは、その場の中心になって、心の奥底まで浸み込みずっと残る温もり、目には見えないけれどもその人の根本を支えるような慈愛を、人びとにもたらしたのだと思います。

 やがて、イエスは死にますが、人びとは、食事をするごとに、イエスがもたらした目には見えない慈愛を感じ、また、目には見えないけれども、イエス自身がそこにいっしょにいることを感じたのではないでしょうか。