275  「世界全体ではなくおやゆびをものさしに」

「日本人は状況から何をまなぶか」(鶴見俊輔、2012年、SURE)

 鶴見さん2010~11年の雑誌や新聞記事集。Think globally, act locallyと言いますが、鶴見さんはthink locallyの思想家かも知れません。「おやゆびのものさしをもって、まわりのものをはかるという流儀が、倫理を考えるときに、私には大切と思われる。自分のしてきたこと、自分が今なし得ることをはなれて、何をなすべきかの目標だけから倫理を考える道をとりたくない」(p.15)。タイトルの「状況からまなぶ」とはまさにこのことではないでしょうか。

 「自分はどうしてこんな自分なのかという心の底からの不定愁訴にききいり、根本的救済は望めないとしても、手当てを考えてゆくのが、哲学の一つの道である」(p.80)。世界全体の根本的救済などではなく、いまの状況に対する「手当」を考えるというのです。

 「手おくれというのなら、すでに手おくれなのだ。おくれて、わずかのものをそだててゆく余地があることを喜び、その余地をひろげることに手をかしたい」(p.27)。「消滅への長い道のりを、歩いてゆきたい」。

 この夏、まさに「手おくれ」となりかねない状況が国会内で進行する中、鶴見さんは旅立って行きました。しかし、まだ、「わずかのものをそだててゆく余地」があるし、消滅までには、まだ長い道のりがあると言うのです。たしかに、わずかだけども、何かが育ってきているようにも思えますし、破滅までにはまだ時間があるのかも知れません。この世界を全く新しいものに造りかえる前に、ぼくたちができることは何でしょうか。

 「相手は、今は一個の化身として見えるとしても、果たして一個のものなのか。相手もまた、自分とおなじく複数のアイデンティティーをもつものではないか」(p.8)。「倫理を考えるとき、ひとつの正義の大道があり、その道を自分は歩いていると考えることにあやうさがある。正義をうたがいなく信じる正義家を、私は信じない」「自分はどうしようもない人間だ、殺してくれという判断が、倫理を考えるときに自分にうったえる力をもっている」(p.14)。

 相手が悪に見えても、悪の化身と見えても、相手にも他の、ひょっとしたら、善のアイデンティティーがあるのではないか。自分は正しいのではなく、どうしようもない人間だ、ということこそが倫理の基盤になるというのです。

 世界はひょっとしたら、まったく新しく生まれ変わるかも知れません。でも、それは、ぼくらが絶対的普遍的な倫理を打ちたて、それにしたがってプログラムを進めていくことによってではありません。ぼくらは、ただ、おやゆびのものさしで、是々非々を訴える、批判すべきことを批判するしかないのではないでしょうか。自分がなした批判への批判も含めてです。ぼくらはどうしようもない人間なのですから。

 何かがわずかでも育つような批判が必要だと思います。何かをわずかでも育てるために出された批判をつかんで、投げ返すことが大事だと思います。そうすれば、絶滅までの道を伸ばすことができるかも知れませんし、もしかしたら、まったく新しい進化が歴史には起こるかも知れません。

 「過去に、人類は、また日本国民はこういう不正義をおこなった。そのことのなかから、新しく未来をさがしもとめてゆこうという方法が望ましい」(p.23)。未来はやはり過去や現在への批判のなかに探し求めて行くべきなのです。

 ちなみに、鶴見さんはカニグズバーグの「クローディアの秘密」と「魔女ジェニファとわたし」を90才近くになって再読され、楽しまれたそうです。ぼくは初読になりますが、さっそく、注文しました。