「叫び声は神に届いた 旧約聖書の12人の祈り」(W. ブルッゲマン著、福嶋裕子訳、日本キリスト教団出版局、2014年)
ぼくは、ひとりで祈るときは、声も出さないし、頭の中で作文もしない。ただ、そこに生じる静寂に身を沈めるだけだ。祈りとは、自分は黙し、神の平安に耳を預けること。このような考えが、ぼくの中にじわじわと定着しつつあった。
誰かと一緒にいるときは、「この人の抱えている困難な問題が解決しますように」と言葉にして祈る。しかし、それに加えて、「その問題が解決するまで、神さま、どうぞ、その人をお支えください」と祈る。
なぜか。「解決しますようにと祈っても、神さまはぜんぜん解決してくれない」とか、「わたしの信仰や祈りが浅いから解決してくれない」というような言葉はあまり聞きたくないからだ。あるいは、問題が解決したから神は本当にいるとか、解決しないから神はいないなどと言った会話を不毛に思うからだ。「神は魔法のように問題を解決してくれる」と言うよりも、「神は、困難な中でも見捨てず、ともにいてくれ、支えてくれる」と言った方が、「合理的」に思える。神は何もしてくれなさそうだから、具体的なことは願わない方が良い、また神をご利益の神にしたくないという「合理性」だ。
けれども、ブルッゲマンはこの「合理的」祈りに「待った」をかける。旧約聖書の登場人物は、そのような祈りをしなかったと。
外国人排斥、ヘイトスピーチ、マイノリティや弱者差別/虐待、辺野古米軍新基地建設、安保法、民主主義を侵害する政権。「こうしたことが無くなりますように、そのためにぼくたちを用いてください」。ぼくは、このくらいの祈りはしたかも知れないが、必死だっただろうか。必死に神に食い下がっただろうか。
神はこれらを無くすことができる。神をなんとか動かしてそうさせなければならない。国会前で「憲法守れ」と叫び、キャンプゲート前で「新基地建築は止めろ」と叫んだように、そういう必死の思いで、神の前で、「神さま、あなたは正義と平和の神さまです。あなたはこの不正義とこの暴虐、抑圧を解決できるお方です。あなたはそうすべきです」と訴えてきただろうか。
「すべては御心(神の心)のままに」とか「これが神の御心だ」というささやきを遠くに聞きながら、「神さま、万が一現状が御心なら、その御心を変えてください。あなたは苦しむ人びとを解放する神ではなかったのですか」という叫びを禁じて来なかっただろうか。
正義を求める祈りは神を動かす。ただし、神の正義の行動は、人間を通してなされる。神が正義をなすが、人間が用いられる。このことをぼくはこの本から学んだ。
ならば、ぼくたちは、こう祈ろう。
神さま、あなたは正義の神なのですから、少数者・弱者への差別・抑圧、国家による戦争準備、軍事基地建設、民主主義の侵害を止めてください。あなたが正義の神の名にふさわしくなるためにも。神さま、あなたの正義のために、人を起こしてください。ぼくたちをお使いください。
この祈りは、沈黙の祈りと矛盾しない。むしろ、補い合うだろう。
聖書の祈りの本質を神の正義の脈絡で説き明かしてくれた著者と訳者の貴重な仕事に感謝します。