「君の悲しみが美しいから僕は手紙を書いた」(若松英輔、2014年、河出書房新社)
きれいですよね。美しいですよね。
悲しむ人に、若松さんがこう言ったのを聞いたことがある。
悲しみが美しいとはどういうことだろう。
「悲しみは、人間がこの世で感じるもっとも高貴な営みの一つでした」(p.10)。
ぼくたちは、悲しんでいるのは良くない、泣くのは止めて明るく笑おう、と思い過ぎてはいないだろうか。
「あなたが、今もこうして悲しみを生きていることが、暗闇にあった私の光となったのです」(p.14)。
ぼくたちの悲しみを、辛気臭いと思う人ばかりでなく、光だと言ってくれる人がいたのだ。
「悲しむとき、相手が生きているときには感じることのできなかった深い情愛が生まれます」(p.22)。
死と悲しみはすべてを無にしてしまうのではなく、まったく新しいものを創造してくれる。
「悲しいのは、喪った者を愛しく思うからで、また、こうした出来事のなかで感じられる心情こそが美しいことを、昔の人は知っていたように思われます」(p.32)。
悲しむことは、その人を愛しく思うこと、愛しく思うことは、たしかに美しい。
「悲しみを生きることはむしろ、人生という大地を深く掘ることに似ている」(p.50)。
ぼくたちの人生の大地の奥深くにあるもの、そこでぼくたちを支えていてくれるものとは何だろう。それは、きっと、真理と呼ばれたり、叡智と呼ばれたり、神と呼ばれたりするものに違いない。
悲しみと死者は、ぼくたちをぼくたちと世界の根源にまで導いてくれる。
「闇は、光が失われた状態ではなく、光の凝縮であるといった人がいる」(p.114)。
悲しみは、喜びが失われた状態ではなく、喜びの凝縮である。死者は、命が失われた状態ではなく、命の凝縮である、と言い換えてみたくなった。