「キリスト教の自己批判 明日の福音のために」(上村静、2013年、新教出版社)
この本には、贅肉がまるでありません。わりと短い時間で読めるかも知れません。けれども、中身は味わい深く、きっと満足できることでしょう。
神の救いは、「いつか、こういう人びとに、訪れる」のではなく、「いま、だれもに、あたえられている状況」のことである。上村さんは、こういうことを言っているのではないでしょうか。
旧約聖書「創世記」の創造物語に示されている信仰心は、イスラエルの歴史の中で曲げられたり、埋もれたりしますが、「コヘレトの言葉」において再浮上し、イエスもそれを語り、弟子たちはイエスの「復活」においてそれを経験し、パウロもまた一度は同じところにいたることを著者は説いています。
その信仰心とは、創世記においては、神は創造主であるというものであり、それは、じつは、〈いのち〉は生かされて存在するという洞察を示す表現だと言います。「『生かされて在る』とは、〈いのち〉が受動態の存在であること、けれども『生きてよい』のだから肯定された存在であることを意味する」(p.104)。人間は、死すべき、不完全な存在、つまり、相対的な存在であるけれども、生かされているのだから、肯定されているのだと。コヘレトもこれを再確認します。
イエスも同様です。「イエスは自然の営みの中に〈いのち〉を生かす神のはたらきを見ているのであり、それを『神の支配』と呼んだのである。イエスは、当時終末論的に理解されていた『神の国』(神の支配)という同じ標語を用いて、創造論的な神支配を復権させようとした」(p.75)。
イエスの弟子たちは、死んだはずのイエスを「見る」という体験を通して、イエスを見捨てるような相対的なものである自分たちが、それでもなお肯定され、生かされてここに在ることを発見します。パウロも自力救済にひた走るエゴイズム=律法主義から抜け出て、他力によって生かされているという洞察を得ます。
けれども、パウロは、そこから、「義」という概念を持ち出し、義なる人間が神によって義と承認されるというところに陥ってしまいます。終末論もまた、いま現在神の創造した世界で営まれる歴史の中で生かされている現実を忘れ、それを歴史の彼方に持ち越し、創造を否定し、義人だけが救われるという考えになり、創造物語で示された信仰心から離れてしまうという著者の見解が示されています。
たしかに、聖書や外典、偽典の黙示文学などは、救いを歴史の外に置き、救われる者を限定してしまっています。
だとすれば、救いの完成は終末に起こるが、その光は現在を照らしているという現在的終末論は、悪く言われる意味での味気ない「教義」というより、イエスの生き生きとした信仰心に近いのかも知れません。もっとも、現在的終末論は、イエスの信仰心から導き出されているのでしょうけれども。