203 「神と人生への服従、偶像と時代への抵抗」

 「服従と抵抗への道  ボンヘッファーの生涯」(森平太、1964年、新教出版社

 ボンヘッファーがナチズムと闘ったのは1930年代。「日本のキリスト者が真に教会的・政治的なあり方を厳しく問われている今日」(p.349)と著者が自覚しつつ本書を出したのが50年前。そして、住民をとめどなく苦しめているにもかかわらず原発事業を続行・推進し、政権や権力者を防衛するための特定秘密保護法を制定し、集団的自衛権行使容認の憲法9条解釈を閣議決定した2010年代。

 80年前、ボンヘッファーを待ち受けていたのは、自己を絶対化した独裁者・独裁政権、そして、それに迎合する教会であった。ヒトラーは「天才的なデマゴギーテロリズムのあらん限りをつくし」(p.30)、首相は自分の言葉に陶酔しながら、議事運営、採決、決議を強行しつづける。

 ボンヘッファーは言う。「国家の秩序と法の過少、ならびに秩序と法の過剰が起こった場合、教会は発言しなければならない・・・教会は、国家という車の犠牲になった人々に奉仕するだけでなく、その車を阻止しなければならない」(p.59)。

 「アロンの教会」ではなく「モーセの教会」(p.69)を。偶像ではなく、み言葉を。独裁者ではなく、神を、ボンヘッファーは目指す。

 けれども、それは、神の不在、沈黙を問わざるを得ない厳しい道のりだった。それでも、彼は、そこに神を、十字架にキリストを見出す。「神は、その恐るべき力と栄光を、沈黙の言葉をもって語り給います」(p.232)。「キリストの苦難に共にあずかることこそ・・・われわれは、成人したキリスト者になることができる」(p.308)。「確かなことは、僕たちが常に神の近くにおいて、また神の現臨の下で生きることを許されているということ・・・僕たちの喜びは苦難の中に、僕たちの生は死の中に隠れている」(p.321)。

 モーセが約束の地に入れず、山頂からそれを鳥瞰しただけだったように、ボンヘッファーは、ヒトラーが倒れるのを見ることなく、死刑に処せられた。ぼくらもなかなか勝てない。けれども、彼は言う。「あなた方が今その勝利を見ようと見まいと、それを問題にしてはなりません。勝利を信じ給え。その時、勝利はあなた方のものであります」(p.71)。「私にとって、これがいよいよ最後です。しかしまたこれは始まりです・・・全世界的な教会の交わりを貫き・・・国家的な利害を超越するあの原理を信じております。そして私たちの勝利は確かです」(p.340)。

 誰のための勝利なのか。「他のために存在すること」と彼は言う。神が他のために存在する、それがイエス。そのイエスによって、わたしたちも、教会も、「他のために存在する」ように招かれる。

 森さんは「キリストと、教会と、世界と、人間とのために戦い、倒れつつ、しかも究極の勝利を得たボンヘッファーの、服従と抵抗の生涯」(p.345)と本書をまとめる。

 今の時代からすれば、相手に対する優位性をどこかに隠しているかのように思える「ために」は、思想的、表現的に磨かれて、「ともに」となった、と言えるだろうが、今、「ともに」を獲得した時点から、「ために」をもう一度掘り下げてみたい。

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