159 「歴史は変化、変化は希望」

 「歴史観キリスト教」(黒川知文著、新教出版社、2013年)

 歴史って何?って訊かれたら、どう答えますか。そもそも、時間って何なのでしょうか。神さまが世界と同時に時間を創った? 世界は創ったけど、時間は創らなかった、なんてことが、理屈の上でもありうるのでしょうか。それとも、生きるもの、存在するものには、時間、あるいは、時間の経過がかならず伴うのでしょうか。

 本書では、前半で、キリスト教や聖書が西洋の歴史観にあたえた影響についてまとめられた上で、後半では、著者のさらなる研究の成果やご自身の経験がのびのびと述べられています。

 では、歴史に対するキリスト教の影響にはどのようなものがあるのでしょうか。まず、歴史は創造から終末すなわち完成に向かうという歴史観、つまり歴史は進歩するという考えは、ギリシャやローマのものとは異なることが述べられています。また、ある出来事が未来の何かを予め表しているとする予表の概念(たとえば、イサクの奉献はキリストの十字架の予表)もキリスト教独自のものだとされます。

 著者によれば、アレクサンドリアのクレメンスは、歴史は神が人間を教育する手段であると論じ、オリゲネスは歴史の出来事は単なる事実以上に何か特別な意味を秘めた「しるし」だと論じたそうです。

 アウグスティヌスは、歴史を「地の国」と「神の国」に分け、人類史は両者がせめぎあいながら「神の国」へと向かう戦いだと論じたそうです。

 このように、歴史は前へと進み、そこに意味がある、神の意志がある、とする考え方は、ヘーゲルの「歴史は自由意識の進歩であり自由の自己実現である」(p.56)tというような歴史観にも引き継がれているようです。

 しかし、歴史は本当に進歩しているのでしょうか。歴史に込められた神あるいは何ものかの意志は実現しているのでしょうか。

 旧約聖書には、イスラエルの民が「約束の地」を目指したり、バビロンから解放されたり、いつかかならず救われる、過去にあった救いの出来事と同様の出来事がきっと起こると言われたりする、前向きの歴史観だけでなく、自分たちが大国の力や軍事力など神以外のものを頼りにしようとした結果、亡国と捕囚に至ったという反省的な観点も見られます。

 わたしたちも、過去の反省としての歴史観、あるいは、過去の出来事に良いものを見出し、それと同じこと、まさる出来事がかならず起こるという歴史観が必要でしょう。

 けれども、歴史は、神さまの自動絵巻ではないと思います。そこには、人びとが自分で生きた足跡があります。神は、人びとの行動を予め決めておかれたのではなく、その時々の人々の息づかいを支えておられるのではないでしょうか。

 歴史が自動的に、あるいは、必然的に進歩しているとは言えません。けれども、時が同じところを循環しているのではなく、直線的に流れている川を歴史と呼ぶのであれば、歴史は、今日は昨日と、明日は今日と違うことが起こり、この苦しみや痛み、束縛が永遠ではなく、変化する可能性を持っている、歴史があるからわたしたちは変革の希望を持てるのではないでしょうか。

http://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E8%A6%B3%E3%81%A8%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99-%E9%BB%92%E5%B7%9D-%E7%9F%A5%E6%96%87/dp/4400310418/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1387861192&sr=8-1&keywords=%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E8%A6%B3%E3%81%A8%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99