139 「他者の子は、他人なのか」

映画「もうひとりの息子」 

テルアビブのイスラエル人家庭と、ヨルダン川西岸地区のアラブ人家庭。それぞれの18歳になる息子が、新生児の時、病院で取り違えられてしまっていたことを知る。

 つまり、イスラエル人家庭でイスラエル人として育てられたアラブ人青年と、アラブ人家庭でアラブ人として育てられたイスラエル人青年。ただし、「イスラエル人」とは生物的人種的概念ではなく、むしろ、政治的、宗教的、共同体的なものであるので、アラブ人とイスラエル人が外見では区別がつかなくても不思議ではないそうだ。言い換えれば、外見では区別がつかないような両者の間に、イスラエルの軍事力に支えられた大きな隔ての壁があるということだ。

 いや、「隔て」というよりも、イスラエルによるアラブの政治的、軍事的差別、抑圧、支配、排除、暴力、暴虐である。まずイスラエルがそれを放棄しなければならない。

 しかし、人と人というレベル、人間の交わりにおける心情のレベルでは、たしかに、「隔て」を乗り越える道があるかも知れない。この映画の中では、そうした希望がいくつか描かれている。

 イスラエル人家庭で育てられたアラブ人青年は、生物上の父と母と兄と妹の家に行く。母と違い、父は無口だ。音楽好きの青年は、言葉の意味がわからないけど、曲が好きで覚えたアラブの歌を突如大きく歌い出す。若干のとまどいとぎこちなさにつづいて、父が楽器を持ってこさせ、奏で始め、家族で合唱となる。

 また、イスラエル人家庭で育てられたこの青年が、じつはアラブ人家庭の子であるにもかかわらず、それが知られていなかった時点では、それから、それが判明しても、すでに18年ともに家族として生きてきた歴史があれば、「あれはアラブ人だ」と憎まれることもなかったことは、イスラエル人のアラブ人への憎悪がじつは政治的なものであり、それは、親しい交わり、ともに生きることで乗り越えられる可能性があることを示唆しようとしているのではなかろうか。

 判明するまではアラブ人、イスラエル人であった青年が、それぞれ、イスラエル人家庭、アラブ人家庭の夕飯に加わる場面もあり、これもおぼろげながら、食卓が希望の芽としては無視できないことを示しているように思う。

 さて、フランス語の原題は、「他者の子ども」と訳すことも可能なようだ。他者とは他人であり、他人の子、つまり、やはり他人だから、憎むのか。それとも、「他者」は自分の所有物ではなく別人格であるがゆえに、尊重しなければならず、侵害してはならないのか。

 「他者」の語頭が大文字だと「絶対他者」つまり「神」でもありうる。

 壁の向うの子も「神の子」の尊厳を持つのであれば・・・

 山崎豊子の「大地の子」で、中国人に育てられた日本人残留孤児の主人公が「わたしは中国人でも日本人でもない。大地の子です」と語ったことを思いだす。

 違いを違いとして尊重しながら、違いを暴力や憎しみにしない道が求められている。

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