132 「仏に向かって脱皮し成長しつつ、自我を滅し他者のために」

親鸞に学ぶ人生の生き方」 (信楽峻麿、法蔵館、2008年)

 他力に傾倒する、その意味では信頼できる、仏教徒の知人からいただいた一冊。

 著者は龍谷大の元学長。真宗学者。

 けれども、書かれていることは、他力救済ではなく、自分自身の成長と他者に連帯する宗教性のことでした。

 まず、真宗における信心とは、自分の存在が虚妄であり、同時に、まったく真実であることにめざめることだとあります。これはどういう意味なのでしょうか。

 信心する人は、まだ仏にはなっていないけれども、すでに仏としての生命を生きるものとして、「仏になるべき身となった」人だという表現や、「生まれたままの私と、仏法に育てられた私との、厳しい葛藤」というような言葉があり、これが虚妄と真実ということか、と想像しています。

 また、自分は必ず仏になりたい(「自分の成仏」)と願う心と、他者の成仏を願い、他者の身になって行動する心が大切だとあります。ぼくなどは、自分が救われたいとか、何かの救いの状態になりたいというのではなく、皆とともにすでに救われた者だという思いが強いのですが、自分の成仏、という考え方は、人間としての向上心、いや、何かに向かって道を歩む者という意味で、あらためて見直してみたいと思いました。ぼくには、たしかに、必死に何かを目指すという姿勢がかけています。もっとも、それを断念したところに差し伸べられている神の御手にすがっているのですが。しかし、その断念は努力や直向(ひたむ)きさの欠如と表裏をなしているのかもしれません。

 それから、国家や社会の原理ではなく、仏法・念仏・信心に基づいて自分の中に構築した原理にしたがって生きていくことが大事だとあり、それは、自分の成仏を目指して脱皮し成長しつつ、同時に他者のために尽くす「自利利他(利己利他とは書かれていません・・・)の生き方」であり、非戦平和、生命尊重、平等社会を目指す生き方だとあります。

 この姿勢からは、真宗教団がかつて戦争に協力したこと、阿弥陀仏は日本の神々は同じだと言ったこと、阿弥陀仏の本願と天皇の意志を同一視し、侵略戦争を聖戦とし、信者を戦列に総動員させてしまったことを、徹底的に批判、反省しなければならないとあります。
 
 「世のひとびとをいのれ」という教えがありますが、「いのる」の「い」とは神聖なること、「のる」とは述べる、告げることであり、祈りは、阿弥陀仏の願いを自分のいのりとすることであり、阿弥陀仏の願いとは、人間・人類、国土・世界の理想のあり方への願いであり、あらゆる人々の救済と成仏であるとあります。

 隣人を愛すること、平和を求めること、自らを批判すること、神の御心がなりますようにと祈ることなど、キリスト教から見て、いくつもの共通点も感じました。

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