780「世界的規模の思想とつながっていくキリスト教思想の展開を」・・・「農村伝道神学校創立70周年記念誌 荒野を拓く」(2022年)

「農の神学」というZOOMミーティングを、広島の山間部に移住した友人の牧師らと月一くらいで細々とやっている。

 

これに刺激され、またメンバーのひとりに紹介され、今かなり売れているらしい「レジリエンスの時代 再野生化する地球で、人類が生き抜くための大転換」 (ジェレミー・リフキン)や「資本主義の次に来る世界」(ジェイソン・ヒッケル)も読んでみた。

 

この二冊では、人間中心の二元論(人間が主で、人間以外を対象物としてしまう・・・)を克服し、多様な生命の絡み合いでありつながりでありその総体である生命圏としての地球という思考が見られ、ここから、地球温暖化、気象変動、貧富の格差、差別を乗り越えようとする。

 

キリスト教の世界でもこのような思想的営みがなされて来なかったか、これを求めて、入手した数冊のうちの一冊が本書である。

 

そして、以下のような記述に共感した。

 

「農村伝道神学校の特徴は何よりも、すべての命の源である「土」と関係を持っていることだと思います。地球温暖化、気候の変化、また飢餓が世界中で増えている時にこそ、すべての命がつながっていることを意識して、共に生きる道を求めたいと考えています」(2022年の校長ロブ・ウィットマー)

 

「教師会は2004年に「農村伝道神学校の進む方向について」を公表し、(1)「農」かかわり、(2)戦争責任を担い、(3)大地と共同性を重んじる神学教育の方向性を示しました・・・農伝の「農の神学」のテーマは「農と食といのち」にあります。現在の世界、また日本の国家・社会の有り様は、様々な局面で大地・自然を破壊し、食を汚染し、いのちを脅かす問題に満ちています。原発の問題、沖縄の新基地建設問題、憲法の平和主義を破壊する安全保障政策等々に、「いのち」を脅かしないがしろにする日本社会の根源的な問題が噴出しています。農伝の神学教育はこの現実をしっかりと見据えて、何よりも「いのち」を生かす宣教の働きを担う宣教者を養成することに努めて参ります・・・現場における弱者の側に身を置いて、人間を分断し差別や抑圧を生み出していく様々な境界線を突破していく神学を追及して参ります」(高柳富夫元校長)

 

「旧約の預言者に関してイスラエル農民の立場が注目され(ヴォルフ、コッホ、ショットロフ)、新約に関しても都市と農村に関する社会的背景が明らかにされている( ヴォルフ、コッホ、ショットロフ  )、組織神学に関しては、近代的な物心(身心)二元論から自然と世界を捨象しがちな信仰理解を批判し、創造論宇宙論をとらえ直すべきであろう。特に生態学との対話が必要である。この点でモルトマンの「創造における神 生態学創造論」は注目に値する」(柏井信夫元校長)

 「「フードバンクのための野菜作り」・・・大阪のシングルマザーのご家庭に3360キロのジャガイモを送り」(藤吉求理子 卒業生、日本基督教団北海教区道北センター主事)

 こうしてみると、大枠としては、「レジリエンスの時代 」 (ジェレミー・リフキン)や「資本主義の次に来る世界」(ジェイソン・ヒッケル)に通じるような思想が日本のキリスト教会にも見られないわけではない、と言えよう。

 

 この思想が、キリスト教内でさらに深まり、広まること、また、この思想でキリスト教外ともつながること、そのような営みの拠点のひとつに農村伝道神学校はなっていくのではなかろうか。

779 「地球を破壊する資本主義産業、それを支える政治、二元論思考。これに立ち向かうための35のポイントや抜粋」・・・

「資本主義の次に来る世界」(ジェイソン・ヒッケル、2023年、東洋経済新報社

 生命圏としての地球はまもなく破壊され尽くされます。その原因は成長を追求し続ける資本主義産業社会とそれを支える政治にあります。格差を今よりずっと縮める政治ぬきに地球の生命維持、回復はありえません。もっと利益をという資本主義の欲望達成行動(これが「成長」の正体・・・)を放棄しなければ、つまり、脱成長の道を歩まなければ、ここ十年に著しい豪雨、灼熱などの異常気象はますます激しくなり22世紀などはとうてい地球生命には来ないでしょう。

 

 これを回避するには、自然を人間と区別しモノとして略奪する二元論から抜け出し、地球のあらゆるものは有機的につながっているという一元論に戻ることが求められます。それは、ごく一部の人びとが保持しているアニミズム(すべてのものには命があり、命はたがいにつながっている)と重なります。

 

 このようなことを念頭に置くと、本書はとてもスムーズに読めることでしょう。文章はやさしいです。ちなみに、学問とか学術論文とかも、基本は優劣の二元論で、論で他を支配しようとし、難解な言葉を言い換える努力などせず、むしろ、難解さを誇るようなところもありますが、本書は、論文知=学知と一般民衆知という二元論から解放されていて、ひじょうに読みやすい、学者個人の所有物ではない人類知にとてもやさしい一冊と思います。

 

 しかし、読みやすいということは読み飛ばしてよいこと、どうでもよいことばかりが並べられていることとは、まったく違います。この本にはぼくが知らなかった多くの大切なことがゆたかに交差し合っています。

 以下、それらのことをできるだけたくさんご紹介したいと思います。

 

1 大企業が土地を所有し、草木を根絶やしにして、単一商業作物(おもに食用家畜の飼料)を栽培し、飛行機で農薬を撒き散らし、生命が交差し重なるゆたかだった生態系を薄っぺらいものにしてしまった。

 

2 海生生物は陸生成物の倍の速度で消滅している。

 

3 1970年以来、鳥類、哺乳類、爬虫類、両生類の種が半減した。さらに数十年で百万種が絶滅する恐れがある。

 

4 気温上昇ゆえに巨大嵐が2020年代は1980年代の倍も発生している。

5 原因は、高所得国の過剰な「成長」=地球破壊、超富裕層の過度の蓄財にあり、低所得国と貧しい人びとの生活が理不尽に脅かされている。不平等がこの脅威をもたらしている。

 

6 地球環境を破壊するエネルギーの代わりにそうでないクリーンエネルギーを用いれば環境は破壊されない、と言うが、そうではない。クリーンエネルギーが用いられても、それは従来のエネルギーの「代わり」ではなく、「さらに加えて」である。クリーンエネルギーが用いられても、従来のエネルギーの使用はさらに高まっている。クリーンエネルギーに移行するには金属、レアメタルが必要で、その採掘が生態系を傷める。

 

7 自然破壊、自然略奪は、人間は他の生物から独立した存在であるという二元論的思考に支えられているが、最近は、科学が二元論を否定し始めている。人間は膨大な数の微生物を体に宿らせ、それに依存していることがわかってきた。植物は人間の精神の健康に欠かせないことが医学的に解明されてきている。木々は他の木々とコミュニケーションを持ち、土壌中の菌糸ネットワークによって養分や薬用成分をシェアしていることがわかりつつある。地球そのものが超生物のように活動していることが発見されている。

 

8 GDP国内総生産)は住民の幸福の基準にはならない。そこには環境破壊、人的負担など、生産にともなうマイナス要因(不幸の要因)は考慮されていない。木材を伐採すれば自然環境という富は減る、マイナスになるが、木材の商品価値だけがプラスに計上される。公害で人びとが苦しんで人的なダメージを受けるが、病院の売り上げだけが数字になる。

 

9 各国政府はGDPを上げ経済を「成長」させるために、労働者の権利を減らし、環境基準を下げ、公地を業者に払い下げ、公共サービスを民営化して、多国籍企業、資本に仕える。

 

10 経済成長すれば、やがて、貧困層もゆたかになる、雇用が増える、生活が向上する、と政府は言うが、そうではない。

 

11 現在の世界の資源消費量は1980年の2.5倍以上になってしまっている。科学者の計算では、これは地球が耐えられる一年間の資源消費量の2倍にあたる。

 

12 資源消費の結果、森林破壊、湿地帯の干拓(つまり湿地帯の生態系が破壊される)、動植物の棲息地の減少、二酸化炭素を吸収してくれる植物の減少(すなわち二酸化炭素による地球温暖化加速)、大地や海の劣化、死、気候崩壊、海洋酸性化が急速に進む。

 

13 アメリカやヨーロッパのハリケーン、洪水、熱波は報道されるが、サウス(貧しい国々)では、その何倍、何十倍の規模の気象災害が生じている。

 

14  第二次産業(製造業)から第三次産業(サービス業)に移行し資源消費が減るという主張があるがそうではない。サービス業で得られた収入は自動車や家具などの資源を要する商品の消費に用いられる。「フェイスブックが数十億ドル規模の企業になったのは、写真のシェアを可能にしたからではなく、生産と消費のプロセスを拡大したからなのだ」(p.161)。

 

15 「ある段階を過ぎると、人間の福利を向上させるためにGDPを増やす必要はまったくなくなる」(p.175)。

 

16 GDPの増加よりも、政治による住民間の「分配が肝心なのだ。最も重要なのは、万人向けの公共財への投資である」(p.180)。

 

17 具体的には「質の高い公的医療制度と教育システム・・・すべての人が健康で長生きできるようにするには、それこそが重要なのだ」(p.182)。それは、コスタリカフィンランドエストニアベラルーシなどを見ればわかる。

 

18 「理論上は、人間の幸福のためになるものを生産し、公共財に投資し、所得と機会をより公正に分配するだけで、現在より少ないGDPで世界の人々のために、すべての社会的目標を達成できる」(p.183)。

 

19 「高所得国が成長を追求し続けることは、不平等と政治不安を助長し、過労や睡眠不足によるストレスや鬱、公害病、糖尿病や心疾患などの不調の原因となっている」(p.184)。

 

20   「所得の配分が不公平な社会は総じて幸福度が低い。不平等は不公平感を生み、それは社会の信頼、結束、連帯感を損なう。また、健康状態の悪化、犯罪率の上昇、社会的流動性の低下にもつながる。不平等な社会で暮らす人々は、欲求不満、不安感、生活への不満がより強い傾向にある。そうした人々は、鬱病や依存症になる割合も高い」(p.185)。

 

21 「幸福度が最も高いのは堅牢な福祉制度を持つ国だった。福祉制度が手厚く寛大であるほど、すべての人がより幸福になる。すなわち、国民皆保険、失業保険、年金、有給休暇、病気休暇、手頃な価格の住宅、託児所、最低賃金制度などが整っている国ほど、国民の幸福度が高いのだ。誰もが平等に社会財を利用できる、公平で思いやりのある社会で暮らす人々は、日々の基本的ニーズを満たすことも心配することもなく人生を楽しみ、隣人と常に競いあうのではなく、社会的連帯を築くことができる」(p.186)。

 

22 引用が続いたが、このようなアプローチは生態系にプラスに働く。社会において人々がより平等に生きることができるようになると、「もっと収入を!」「もっとたくさんの高級なものを!」「もっとすばらしいものを(とじつは思わされているだけのものを)!」という欲望と消費、広義での買い物依存、消費依存から解放される。その結果、不要な生産が減り、二酸化炭素排出が減り、地球環境の危機が低くなる。

 

23 富裕層は貧困層より多くのものを、しかもエネルギーのかかるものを消費する。豪邸、高級大型車、プライベートジェット、頻繁な飛行機利用などである。それでも使い切れないお金は、生態系を破壊するような「成長」企業に投資される。

 

24 「公共サービスはほとんどの場合、民間のサービスより炭素・エネルギーの集約度が低い。たとえばイギリスの国民保健サービスは、アメリカの保険制度に比べて、CO2の排出量はわずか3分の1だが、より良い健康アウトカムをもたらしている。公共交通機関はエネルギーと物質の両面において、自家用車より集約度が低い。水道水はペットボトルの水より集約度が低い。公共の公園、スイミングスクール、娯楽施設は、個人の広い庭やプライベートプールやパーソナルジムより集約度が低い・・・公共財の存在は、所得を増やさなければというプレッシャーから人々を解放する」(p.191)。

25 「過去40年にわたって支配的だった新自由主義的政策・・・政府は、成長を求めるあまり公共サービスを民営化し、社会的支出を削減し、賃金と労働者保護をカットし、富裕層の減税を手助けすることによって、不平等を急速に拡大してきた。気候が崩壊しつつある時代にあって、わたしたちはまったく逆のことをしなければならない」(p.192)。

 

26 つまり、日本の政権がここ数十年やってきたことにはこういう意図があって、世界規模の出来事だったのだ。地球温暖化と貧富の格差は、資本家、企業、金持ちのための政治と密接につながっていたのだ。

 

27 では、これらを解決するにはどうしたらよいか。「ステップ1 計画的陳腐化を終わらせる」。つまり、数年経てば壊れるように設計され、部品交換でも修理できない製品を作り、定期的に買い替えさせる、ことを終わらせる。「過去10年間で、100億台のスマートフォンが廃棄された・・・毎年、1億5000万台の廃棄コンピューターがナイジェリアなどに輸送される・・・山積みにされ、水銀、ヒ素、その他の有毒物質が、地面に垂れ流しになっている」(p.213)。30年もつスマホやパソコン、300年、せめて100年もつ家具、住宅を製造せよ!

28 「ステップ2 広告を減らす」。「広告を締め出すのも一手だ。人口2000万のサンパウロは、すでに都市の主要な場所でこれを実施している・・・広告の削減は、人々の幸福にプラスの影響を直接与えるのだ。これらの措置は、無駄な消費を抑えるだけでなく、わたしたちの心を解放し、常に干渉されるのではなく、自分の考え、想像力、創造性に集中できるようにする。広告が消えた空間は、絵画や詩、それに、コミュニティを築き本質的価値を構築するためのメッセージで埋めることができる」(p.218)。

 

29 「ステップ3 所有権から使用権へ移行する」。

 

30 「ステップ4 食品廃棄を終わらせる」。見栄えのよくない野菜、まとめ買い割引で売られた余分な食品、厳しく設定された賞味期限越えの食べ物など、けっきょく、30~50%が捨てられている。これをやめにしたら、生産や流通による温暖化が抑えられる。

 

31 「ステップ5 生態系を破壊する産業を縮小する」。肉商品生産のために森林が消滅的に破壊されている。世界全体への酸素供給が危機にある。肉をそんなに食べないほうが、健康で長生きできる可能性は高い。

 

32 労働時間を減らすことも地球環境保護につながる。「フランスの家庭を対象とする研究では、長い労働時間は、環境負荷の高い商品の消費と直結していることが判明した・・・余暇を多く与えられた人々には、環境負荷の低い活動に惹かれる傾向が見られた。運動、ボランティア活動、学習、友人や家庭との交流などだ」(p.226)。

 

33 「計画的陳腐化を終わらせ、資源の消費に上限を設定し、労働時間を短縮し、不平等を減らし、公共財を拡大する――これらはすべて、エネルギー要求を減らし、クリーンエネルギーに迅速に移行するために必要なステップだ。だが、それだけに終わらず、これらすべては資本主義の論理を根本的に変える」(p.234)。

 

34 「わたしたちが関わる他の生物――他の人間だけでなく植物や動物――も、等しく主観的経験を持つ存在である・・・彼らもわたしたちと同じように身体を持ち、世界を感じ、世界と関わり、反応し、形づくっているのだ。実のところ、わたしたちが見ている世界は、彼らがわたしたちと共につくったものであり、彼らの世界は、わたしたちが彼らと共につくったものである。わたしたちと彼らは、知覚の官能的なダンスで互いに交流し、継続的な対話を通して、世界を知っていくのだ」(p.272)。

 

35 「結局のところ、わたしたちが「経済」と呼ぶものは、人間どうしの、そして他の生物界との物質的な関係である。その関係をどのようなものにしたいか、と自問しなければならない。支配と搾取の関係にしたいだろうか。それとも、互恵と思いやりに満ちたものにしたいだろうか?」(p.291)。

 

 

 


https://www.amazon.co.jp/%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E6%AC%A1%E3%81%AB%E6%9D%A5%E3%82%8B%E4%B8%96%E7%95%8C-%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%AB/dp/4492315497/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=177N9LN04WKPH&dib=eyJ2IjoiMSJ9.fB1C63GWH9LTM80og5B8aGm34fpsFrPTukBtvZkH8R4J26fWaUkVNkNdKoCek9io6WzEJxc6kJc_23DvBLKhlZxCO0Cnq6PEYP13kEZmt1bQ1ez2zlhfMFAtjWRQ6YvDbmff9qh_1ngVCKd7mtWY9wOFlcE8GAbMZLxK49rrCvywng9_AgFyA4u4f1Zbk45LcMGdW2MiUaidjTcXHIa4WH_b3Or4bGZBYXScvYNqR3G_c4oFsBPRcro-h_P6mtEMAUTbTeBBfVWq9Zp55UERhPvNG1yCDCMQ2mdcGzYHLbo.c7uG0FxLqyN0lSKQ5SdhsjOrzpAiAhtqQuH81CSqdVQ&dib_tag=se&keywords=%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E6%AC%A1%E3%81%AB%E6%9D%A5%E3%82%8B%E4%B8%96%E7%95%8C&qid=1708928280&sprefix=%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E6%AC%A1%E3%81%AB%E6%9D%A5%E3%82%8B%E4%B8%96%E7%95%8C%2Caps%2C162&sr=8-1

778 「善は個人の美徳なのでしょうか」 ・・・ 「RITA MAGAZINE テクノロジーに利他はあるのか?」(伊藤亜紗/中島岳志/北村匡平/さえ/砂連尾理/三宅美博/三宅陽一郎/稲谷龍彦/藤原辰史/真田純子/塚本由晴/ドミニク・チェン/山本真也/小林せかい/磯﨑憲一郎/木内久美子/國分功一郎/山崎太郎/若松英輔、2024年、ミシマ社)

 ソウルメイトから紹介されて、ソクヨミしました。対談とか講演とかだし、東京工業大学関係とは言え、論文集ではなく、MAGAZINEなので、とても読みやすかったです。

 最近読んだ「資本主義の次に来る世界」とか「レジリエンスの時代」とか「旧約聖書環境倫理」といった本ともリンクしまくっていました。地球は人間オンリーでも人間センターでもなく、動物、植物、山、川、星なども人格というか主体というか生命というかそういうものを持っていて、さらには、その主体、人格、生命がたがいにつながっている、という観点がともに鳴り響き渡っていました。

 

 利他、RITAと言っても、リタ・クーリッジ RITA COOLIDGEではありません。かと言って、たんじゅんに、わたしが誰かに良いことをしてあげる、わたしが誰かを助けてあげる、ことでもありません。

 「「社会的な役割」をいったん脇においたときに初めて向き合えるのが、利他という概念なのかな」「もし人間である私たちが、完全に個人的な存在で、自分の利益を最大化することしか考えていなかったら、社会などつくらないでしょう。利他的な関係がまずあって、社会が生まれ、そのうえに私たちが当たり前だと思っている制度や価値観が乗っかっている。利他は私たちの社会のあり方を、土台の部分から考え直すための道具です」(p.3、伊藤亜紗

 利他を「思想」とは言わずに、「利他的な関係」「道具」というところがとても良いのではないでしょうか。

 「しばしば利他は「善行」と混同されています。けれどもその善行が「自分の頭で考えた、相手にとってよいこと」であるかぎり、それは自分の正義を押し付けることになってしまう」(p.4、伊藤亜紗)

 そうなんですよ! つけものが嫌いなぼくに「おいしいからぜひ食べてください」とか言って高級なものをくださっても、まあ、困るのです。困らないのは、良いことをしたいというその方の願いだけではないでしょうか。すると、これは利他というより、利己っぽいですよね。

 

 「粘菌というものすごく生命的な巨大アメーバが、この複雑な自然界で判断しながら生きている。どこが頭か手かもわからないような、高度な可逆性を持ったシステムが生きているとき、それは脳のような中枢的な世界ではない。人間と真反対の考え方、つまり「分けない」という形で、むしろ知性を高めた生き物がアメーバだったんじゃないかと思うんです。しかし人間も、とくに身体が関わってくる潜在的なインタラクションの中に、まだ似た側面を持っていて、それが「共創」のベースになっている、という考え方をしております」(p.48、三宅美博)

 「人間と真反対の考え方」とありますが、利他を「思想」ではなく「関係」とか「道具」とか呼ぶのであれば、むしろ「人間と真反対のシステム」と言った方がよいのかもしれません。ただ、ここで斥けられているものは「個人的な考え方」「個人的な思想」「閉じられた精神」のことであり、共同思考、共同思想、共同精神はありでしょう。共に創り、共に有する精神ですね。

 

 「我々が意識する世界のさらに下に、我々を潜在的につないでいる「場」があって、「場」が共有されている中で初めて主観的な世界が共有され生まれてくる」(p.49、三宅美博)

 

 すると、たとえば、頭のよい人が東大に合格したりして、それはその人の能力と努力の結果だと思われているわけですが、そういう能力も努力も、じつは、ぼくたちを潜在的につないでいるシンクタンクみたいな「場」があって、たまたま、その人がその端末になっているにすぎない、その人に現れているように見える能力や努力はじつは共有財産なのだ、大谷選手のホームランも勝ち星も藤井さんの八冠もみんなのものとも考えられるのではないでしょうか。

 

 「じゃあ、「与える」ではない利他ってなんなんだろうと考えたときに、今日のキーワードでもある「漏れる」が出て来たんです・・・自然界に目を向けてみると、そこにあるのは「あげる」じゃなくて「漏れる」ばかりなんですよね。たとえば「木洩れ日」は、植物が太陽の光を独占しないで、かといって与えているわけではなく、漏れ出させている状況です。そうすると、地面に近いところに生えている植物も光合成できる」(p.74、伊藤亜紗)

 

 これとちょっと似ているのが旧約聖書にあって、畑を全部刈り取らないで残しておく、そうすると他の人が刈り取る、というシステムです。善意をむき出しにして直接「与える」のではなく、刈り漏らすという形でわかちあう。

 

 「漏れるということは、閉じつつ開かれている、ということですよね。「漏れる」と「与える」の違いをひと言で言うなら、それは「宛先が決まっていない」ということだと思うんです。「与える」は自分の行為の結果をコントロールしようとしえいるのに対し、「漏れる」はそれに無頓着」(p.75、伊藤亜紗)

 

 良いことらしきことを押し付けようとか、自分が善人になろうとか、そういう執着がないのがとても良いですね。

 

 「もしヴァンゼー会議が近代の行き着く先の悪い方向だとするならば、お二人の考えていらっしゃる合意形成とか会議というのは、全然当初の目的とずれ始めるとか、最終的な決着について、みんなが全然違うことを考えているとか、なんかもう会議という概念自体を考え直さなきゃいけないなと、お話を聞いて思いました」(p.98、藤原辰史)。

 ヴァンゼー会議というのは、ヒトラーらがユダヤ人殺戮を異論なしで決めた会議のことです。異論がなければ、いろいろな意見がなければ、葛藤や摩擦がなければ、こんなおそろしいことが決まってしまうわけです。最初から結論が決まっている会議です。しかし、会議は、いろいろな意見があって、最初誰かが目指していた結論とは違うところものが生まれてくる可能性を持っていなければならない、というのです。

 

 「僕は「草の根」性は好きだし大事にしたいけれど、それだけでは同じ人しか来ない状況が生まれやすくて。リベラル系の集会はだいたいそうなんですよ。さまざまなテーマを扱うのに、毎回同じ人が集まって討議する。そういう政治の場にランダム性を入れると、権力構造も変わるんじゃないか、と思っています」(p.124、國分功一郎)。

 リベラル系もじゅうぶんヴァンゼー会議化しやすいのです。討議の場に、可能であればランダムに人を集めると、想像もしなかったおもしろい考えが創出されるかもしれません。

 

 「土壌とか微生物を、人間以外の主体性を持つ存在として捉えることになる。たとえば哲学では、人間しか言語を話さないから人間が自然を統御するべきだ、という「人間例外主義」が近代的な前提ですけれども、自然科学で人間以外の生命を研究している人たちが、「いや、ちょっと待てよ」と。クジラや象、キノコや植物とかも、言語みたいなものを持っていることがだんだんわかってきて、哲学の前提が、自然科学の最先端で崩れてきている」(p.152、中島岳志)。

 東工大で文系のリベラルアーツをやる。そのおもしろさのひとつがこういうところではないでしょうか。

 

 「「私の一票ってなんなの?」と言ったときに、微生物や周りの木々、他の動物や亡くなった人や、誰かまだ見ぬ他者が含まれたものであるという、そういう観念が必要なんだと思うんです」(p.167、中島岳志)。

 

 利他の他にはこういうところも含まれていて、これらは他でありながら己と深くつながっているから、広い意味では利己(この場合良質な)でもあるのかもしれません。

 

 「デリダは・・・「絶対的ないし無条件の歓待」を主張する。絶対的な他者、知られざる匿名の他者に対しても、名前さえ訊ねず、アイデンティティの同定も禁ずること」p.220、北村匡平)。

 

 「國分功一郎は・・・次のように定義する。「歓待とは他者を受け容れる側も受け容れられる側も変わることである。それに対して寛容はまさしく無変化によって定義される。つまりそれは自分を維持しつつ他人を受け容れることです」(p.225、北村匡平)。

 

 「別の場所でも國分は「寛容tolerance」と「歓待hospitality」を対照させ、後者が相手を受け入れて自分が変わっていくこと」で、「歓待においては自分が客なのか、主人なのか、それすらわからなくなってしまう」と話している」(p.226、北村匡平)

 

 「歓待とは、自他と環境の相互の中でその領域が次第に形づくられ、時に主客が入れ替わり、時に自他が変容していくことで生成するものではないだろうか」(同)。

 

 というわけで、利他は、ぼくたちが良い人になるために良いことを人にしてあげる、ということではなく、むしろ、人間以外の生命圏にみられる共存のOSであるのかもしれない、わけです。

 

 世界には性善説的なシステムが組み込まれているのでしょうか。個別に善人であるというより、いのちのつながりのなかに善があるというような。

 

 

https://www.amazon.co.jp/RITA-MAGAZINE-%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%8E%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%81%AB%E5%88%A9%E4%BB%96%E3%81%AF%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%EF%BC%9F-%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%81%AE%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC/dp/4911226005/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=2OL0PF69K80Z3&dib=eyJ2IjoiMSJ9.wzyx5WFPaK5lc1Me5whLTw.wD6AsgM1_0MRDNO8xdAWn856cPNKTcUORwDLVCw-YFo&dib_tag=se&keywords=rita+magazine+%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%8E%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%81%AB%E5%88%A9%E4%BB%96%E3%81%AF%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%3F&qid=1708834740&s=books&sprefix=rita+magazine+%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%8E%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%81%AB%E5%88%A9%E4%BB%96%E3%81%AF%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B+%2Cstripbooks%2C179&sr=1-1

777 「アーメン、ぼくも信じます」 ・・・「ことばのきせき」(若松英輔、2024年、亜紀書房)

 若松英輔さんの詩は読みやすい。ぼくは読めていないのかもしれないが、読んでいるようにも思う。

 若松さんが紹介するリルケの詩はぼくには読めない。むずかしい。でも、あそこに書かれていることは若松さんがこの詩集で書いていることと同じことなのかもしれない。

 すなわち、ことばのきせき、が書かれていると。

 

 言葉の奇跡、ことばの奇跡、言葉の軌跡、ことばの軌跡

 

 いや、人の文字では、「ことばのきせき」としか書けない。

 

 「ことばを抱き寄せ 言葉に/光のちからを取り戻せ/不可視な光を/世にはなて」(p.6)

 ことばと言葉。不可分であるが、とりあえずは、分けることもできるのかもしれない。矛盾だが。矛盾こそが詩なのだろうか。

 

 最後に収められた「奇蹟のことば」は、新約聖書イエス・キリストを詠っている。

 

 「しかしあの方を 神だと知った者たちは誰も/あの方から徴をもとめたりはしませんでした/切望したのは言葉です/あるとき、あの方はこういわれました/「人はパンのみにて生くるにあらず/神の口からでる すべての言葉によって生きる」」(p.96)

 

 「ただ お言葉をください そうすれば わたしの僕は癒されます」(p.97)

 ここでは、言葉はことばと重なっている。

 

 「言葉は 消え入りそうないのちを/新生させることができるのです」(p.98)

 

 「あなたは あの方がくりかえし語られた/いのちと呼ぶ どんなことがあっても/滅びることのない何かが/すべての人に宿っているとお信じになりますか」(p.100)

 

 アーメン。はい、信じます。

 いのち、どんなことがあっても滅びることのない何か、ことばをぼくも信じます。
 

 

https://www.amazon.co.jp/%E8%A9%A9%E9%9B%86-%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0%E3%81%AE%E3%81%8D%E3%81%9B%E3%81%8D-%E8%8B%A5%E6%9D%BE-%E8%8B%B1%E8%BC%94/dp/4750518247/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=2MI7GDNMGCPIF&dib=eyJ2IjoiMSJ9.Cl55vd_0PzpHqOYSz9fDbDzTehh1FuDWaipunVFc82xfEclcZGqh035ow1TU3KOKJzdsQzWSRgMqnYr4n_s_0-V0mYQSDZZKLxeGisabexOiRbHecM70_oVBxMHCNLKXB7QXd3aEuxn8kWdUk-yCJQ1tS5uneOdQYffzoWcIXncRAJuuxeQcEdJKEfK-xBWi95LgNFKmGw8EgpGuc1D9SfkUfYfzSFnaB115QNWH5q6U6WbsKS4SdGGMLbc8lmpZg91ZVun0Xts3SFWhiT6edZEcO3Tej1bZ4TgO46DQx1c.GTIiBioXPCi5oAHSpGxRK1sng9RAsg7Y5l0q6ERhWS4&dib_tag=se&keywords=%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0%E3%81%AE%E3%81%8D%E3%81%9B%E3%81%8D&qid=1708132052&sprefix=%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%B0%E3%81%AE%E3%81%8D%E3%81%9B%E3%81%8D%2Caps%2C169&sr=8-1

776 「格差、差別、戦争、汚染、絶滅を乗り越えるカフェを」 ・・・ 「食べものから学ぶ世界史: 人も自然も壊さない経済とは?」(平賀緑、2021年、岩波ジュニア新書)

「世界史」をふりかえると、人間の口に入る「食べもの」は、支配者の都合によるものだったことをこの本は教えてくれます。

 

小麦、大麦、コメ、トウモロコシが主食とされたのは、長期間保存、貯蔵、輸送ができたので、支配者の富の蓄積に好都合でした。地中にあるイモとは違い、地上で実るこれらの穀物は、隠されず、徴税に便利で、そのための計量も楽でした。つまり、これらは「政治的作物」だったのです。

 

近代になって、産業革命が起こってからも、「食べもの」は支配者の手にありました。イギリスの労働者は、北米からの小麦、カリブからの砂糖、インドからの紅茶など、つまり小麦のパンと砂糖入り紅茶で、一日の厳しい労働の燃料として朝のカロリーをとらされることになったのです。

 戦後の日本で言えば、アメリカの小麦やトウモロコシを消費するような食生活を仕立てられました。アメリカは売り、日本の食料企業は買い、その道筋を政治家が整えます。ハンバーガーをいつのまにか食べたいようにさせられ、自分の好きなものを食べているかのように、じつは、消費させられているのです。

 こうした中で、農は農産業となり、いのちを養うはずの食べものが、儲けるための工場生産物となり、生態系は浸食されています。たほう、温暖化に伴う異常気象で動植物の生が失われています。人間の貧富の格差は拡大し、少数の富める者の贅沢な生活スタイルによって、地球環境は危機的となり、その犠牲者は貧しい者たちです。

A「長い間人類は、自分たちが食べるモノ、必要なモノは、基本、自然から分けてもらい、自分たちで作り、そのための知識やスキルや自然環境を、社会の共有財産として護り育ててきた。自分たちの生活基盤であるからこそ、自然環境もみんなで管理し維持していた」(p.157)。

 

B「それが、産業革命以降、大きく変わってしまいました。人びとは生活から離れた場所に、賃金を得るために働きに行くようになり、資本家はそんな労働者を雇って、売って儲けるための「商品」を大量に生産するようになりました。そして、人間が生きていくための食べものも、市場経済に組み込まれたお金を儲けるための「商品」に変わっていきました」(同)。

 その結果の、貧富の超格差、そして、地球と生命の危機です。

 

では、どうしたらよいのでしょうか。

 

Aに戻ることはできません。しかし、参照することはできるでしょう。

 

「自分の身体と頭脳をつくる食べものを選び取ること、自分で食事を用意できるスキルをもつことは、自己防衛のためにも環境負荷を減らすためにも必要になってきます。そうすれば、人も自然も壊さない食と農を考え始められるでしょう」(p.164)。

 

そんなことができるでしょうか。けれども、たとえば、こんなことならできるかもしれません。

 

「地域でがんばっている小さな農家(=小農、家族農業)や有機農業、地域が支える農業、地域の生態系と社会の中で食べものを育てるアグロエコロジーなどなど、社会を変えようと始められている活動につながることができると思います。探せば、いろんな取り組みはすでに始まっているのです」(同)。

 

そのために、食べもの、地球、人権、平和、富の平等な分配などを語り合うカフェを始めてはどうでしょうか。たとえば、ZOOMで、たとえば、月一でも。

https://www.amazon.co.jp/%E9%A3%9F%E3%81%B9%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%82%89%E5%AD%A6%E3%81%B6%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2-%E4%BA%BA%E3%82%82%E8%87%AA%E7%84%B6%E3%82%82%E5%A3%8A%E3%81%95%E3%81%AA%E3%81%84%E7%B5%8C%E6%B8%88%E3%81%A8%E3%81%AF-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B9%B3%E8%B3%80-%E7%B7%91/dp/4005009379/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=3CG4WE3DTWXTA&keywords=%E9%A3%9F%E3%81%B9%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%82%89%E5%AD%A6%E3%81%B6%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2&qid=1707536738&sprefix=%E9%A3%9F%E3%81%B9%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%82%89%E5%AD%A6%E3%81%B6%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%2Caps%2C165&sr=8-1

775 「精神科臨床医のおそるべき言語教養」・・・ 「私の日本語雑記」(中井久夫、2022年、岩波書店)

 「私は「負うた子に教えられ」を「大蛸に教えられ」と誤解して、どんな蛸かと思っていた時期もあった」(p.153)などというとぼけた一節もあるから、やはり「雑記」でもあるのかもしれない。あるいは、著者にとっては何かを論説しているつもりはないのかも知れない。

 

 けれども、20世紀後半日本を代表する知識人によるこの一冊は、深い思考と教養に基づいていることが、ぼくのような浅薄な人間には、ひしひしと感じられる。

 

 「ドッホ(doch)一つだけを取り上げても「いや、そういうこともあるかもしれないけれども、私の意見は違うし、しばしば感情的にも受け入れ難いのであって、その根拠は今から述べる」という交通標識である」(p.15)。

 

 大学初年の一般教養のドイツ語の授業では「単純な否定ではない。文脈によって、「でも」「しかし」「と言うものの」「一方で」などの意味」程度のことを習ったように思うが、中井さんがdochについて交通標識は「定義」の域に達している。

 中井さんは晩年カトリックの洗礼を受けたようだが、その前から、西洋古典のひとつとして、聖書にも信徒や牧師、神父以上の取り組みをしていたようだ。

 「今なお文語訳の聖書には文語独特の力があって、これで初めて聖書に接した者には、口語訳はとうてい「聖霊に満たされて訳した」とは思えない憾(うら)みを感じてしまう」(p.30)。

 新約聖書ギリシャ語の一形態で書かれた。それとはかなり違う現代ギリシャ語の詩を中井さんは邦訳している。本書にも記されているが、中井さんの翻訳作業は、創作と同じ、あるいは、それ以上の精魂を込めたものであったようだ。

 

 「ヘブライ語のようにほとんどandに当たる接頭辞一つで済ませている荘重な言語もある」(p.33)。

 

 これは旧約聖書の原語のことだ。ヘブライ語を義務で少しだけ学んだ牧師くらいしか知らないこんなことをさらりと書いてみせる中井さんの文学教養に驚く。

 

 ヘブライ語聖書はラテン語に翻訳された。

 

 「私には、最初、エスペラント語訳のようにみえた。ギリシャ語の新約聖書ところどこを苦心して読んでいた時の、胸に迫る感じがないのである」(p.130)。

 

 中井さんはその時代の卓越した精神科医だ。阪神淡路大震災の時も大きな役割を果たしている。その彼が、エスペラント語ギリシャ語、そして、ラテン語で本を読んでいるというのだ。なんという知性だろう。

 

 「翻訳は精読の一つの形」(p.201)。

 

 ぼくはこれにはうなずいた。ぼくも翻訳をしたことがある。スペイン語の神学書だ。外国語で斜め読みなどできない。精読しかない。ぼくにとって精読とはすべての単語を頭の中で日本語に訳すことだった。それを文字にしない手はない。それがぼくの翻訳であった。

 

 「翻訳は外国語能力の応用である部分もあるが、特定の著作や著者への情熱による部分も無視できない」(p.221)。

 

 ぼくがそうだった。二十歳を過ぎたころ「解放の神学」に感動した。ラテン・アメリカの神学だ。原書を読むためにスペイン語を勉強した。スペイン語能力があったから読んだのではない。グスタヴォ・グティエレスの邦訳を何冊か読み、ついに、日本語訳のなかったものをスペイン語から翻訳する機会にめぐまれた。原書では二冊だったが、日本語では四冊になった。これ以外の翻訳はぼくにはない。ああ、日系ペルー人の手記を翻訳して雑誌に掲載してもらったことがあったけど。

 

 「言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ」(p.45)。

 

 精神科医の横顔がうかがえるパラグラフだ。

 

 「「のである」「なのだ」は自信を奮い起こして前進するための自己激励である」(p.36)。

 

 「「のである」「なのである」は「ここで立ち止まってそれまでの数行を振り返って下さい」という印」(同)。

 

 「「ということである」は「伝聞であるが一般に承認されていることですよ」という意味を含ませている。はっきり証拠を挙げるとか論証は省きますよという意味もある。いちいち論証していては進まないので、本筋を外さないために使う。しかし、自信のなさがどこかに反映しているのかもしれない」(同)。

 

 「「かもしれない」は「そうだ」という断定を反語的に言っている場合から、「責任は負わないけれど、そうではありませんか」という含みまである」(p.37)。

 

 中井さんは患者の心を「見抜いている」のではなく、「ともに揺れている」のだろう。最相葉月さんが「セラピスト」に描いた中井さんの臨床風景が思い出された。

 https://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E9%9B%91%E8%A8%98-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%96%87%E8%8A%B8-342-%E4%B8%AD%E4%BA%95/dp/4006023421/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=35L8A9RGME558&keywords=%E7%A7%81%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E9%9B%91%E8%A8%98&qid=1707527194&sprefix=%E7%A7%81%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E9%9B%91%E8%A8%98%2Caps%2C167&sr=8-1

774 「あなたも、少しでも今より伝わるお話ができるかも」 ・・・ 「聖書のお話を子どもたちへ」(小見のぞみ、日本キリスト教団出版局、2024)

 子どもたちの前での説教が苦手で(むろん、大人たちの前でもそうですが)、この本を読んでみることにしました。すると、子ども説教のみならず、大人説教の参考になることがたくさん書かれていましたので、以下に箇条書きします。

 

〇「物語る」ことは、原稿や本を読んで聞かせるよりも効果がある。書いてあるものを読んで聞かせる場合は一方通行になりやすいが、物語ると語り手と聴き手のその場の関係性ができる。原稿を書いた上で、短い場合はそれを見ずに、長い場合もあまり見ずに、会衆を観ながら、しかも「読む」のではなく「物語る」のがベスト。

〇ひとりひとりの顔を見て、気持ちに寄り添い、語りかける。

〇導入で話をまとめて結論を言ってしまわない。(大人説教で難解な聖書箇所の場合それも聞いてもらうための一つの作戦としてありだと思いますが)

〇「今日の聖書はちょっと難しくてぼくもよくわからないのだけれど」などという言い訳を子どもにはしない。(大人にはそれが語り手と聴き手の共感になる場合もあると思いますが)

〇第一声、語り始めはだいじ。

〇話を退屈にしないために、くどい説明、不要な言葉、寄り道を省く。テンポ。スピード感。

〇子どもがふだん話したり聞いたりしている言葉で語りかける。

〇神さまの思いが伝わり、子どもがアーメン、本当にそうだね、と思われるお話し。

〇自分と聴き手との共通領域を見つけ、そこにある言葉で語る。

〇大切なことは繰り返す(くどくならないように、要点をつかんだ短いセンテンスを二度繰り返す)。

〇複合文は避け、短い文でつなげる。「佐賀県で生まれたお母さんは、東京の学校で勉強し、子どもの頃からの憧れであった看護師になりました」→「お母さんは佐賀県で生まれました。そして、東京の学校で勉強しました。それで、看護師になりました。子どもの頃から看護師に憧れていたのです」

〇会話文で生き生きと。「太郎は花子に自分が花子を愛していることを告げました」→「太郎は花子に言いました。「ぼくとつきあってください」」

〇聖書の物語を聴き手が追体験できるように。善きサマリア人の話なら、聴き手が自分が、強盗に襲われた人か、サマリア人になったように感じるように。

〇究極のモデルを聴き手に示す。「ああ、わたしもイエスさまのようになりたいなあ」と思えるように。

〇律法ではなく福音を。「神さまを愛しなさい」(律法)→「神さまはきみを愛しているよ」(福音)(→「だからぼくたちも神さまを愛したいよね」(促し))

〇失敗した人も見捨てない神さまの愛を聴き手に物語る。

〇「こわい神さま」よりも「やさしい神さま」

〇その日の聖書の箇所から、まず語り手が、神さまからの良い知らせ(福音)を読み取る。ああ、神さまはこんなにもわたしを愛してくださるのだなということを読み取る。

〇話す前にわからないことを調べることは大切だけれども、それをくどくどと話さない。物語の中に織り込む。「安息日とは本で調べたら何も仕事をしてはいけない日のことらしいですが、ある日、律法学者が・・・ああ、律法学者とは、これも本で調べたら、これこれこういう人で」→「律法学者さんがイエスさまに言いました。『安息日はどんな仕事もしてはいけないんですよ』 」

〇ことがらの省き方、省くセンスを身に着ける。全部語らなくてよい。大胆に省いてよい。でも、センス良く。いちばん大事なポイントをつかんで、それを語る。

〇「こういう悪いことはやめて、こういう良いことをしましょう」というような勧善懲悪にならないように気を付ける。箇所によってはどうやってもそうなるところもあるけど。

〇絵の利用はOK。絵はイメージをゆたかにしてくれる。ただし、イエスさまの同じ絵ばかり見せて、イメージが固定化しないようにする。その場合、ときどき、絵を替える。また、画像ばかり見せすぎて、聴き手の想像力を邪魔しないように。
〇話を作る前に、聴き手の顔ぶれを思い浮かべる。しかも、顔だけでなく、その時々の思い(たとえば、地震の直後とか、コロナの流行中とか、新学期とか)もあわせて想像する。

〇準備の時は、聖書を何度も読む。それは退屈だと思うなら、「リビングバイブル」「現代訳」「新改訳」「新改訳2017」「日本聖書協会 口語訳」「日本聖書協会 新共同訳」「聖書協会共同訳」などから何冊かを比べて読むのも一策。

〇聖書の参考書を読む場合は(読まなくてもいいけど)、できれば、一冊だけでなく二冊か三冊を比べてみる。一冊だとそれにとらわれてしまうかも。

〇お話ができたら、導入がもたもたしていないか、長文はないか、自分で読んでわかりにくい箇所はないか、読み直す。

 

 さあ、これで、YouTubeにアップロードすれば一万アクセスの聖書のメッセージができるかも知れません! もっとも、神さま、イエスさまはそんなアクセスを気になさらない、愛に満ちたお方ですが。

 

https://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%AE%E3%81%8A%E8%A9%B1%E3%82%92%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%B8-%E5%B0%8F%E8%A6%8B-%E3%81%AE%E3%81%9E%E3%81%BF/dp/4818411531/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=24CDL8QWN40R8&keywords=%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%AE%E3%81%8A%E8%A9%B1%E3%82%92%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%B8&qid=1707288604&sprefix=%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%AE%E3%81%8A%E8%A9%B1%E3%82%92%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%B8%2Caps%2C161&sr=8-1