773 「旧約聖書には人間と神以外の人格が存在する」・・・「旧約聖書と環境倫理: 人格としての自然世界」(マリ・ヨアスタッド (著)、魯 恩碩 (翻訳)、教文館、2023年)

誤読ノート773 旧約聖書には人間と神以外の人格が存在する」

 

旧約聖書環境倫理: 人格としての自然世界」(マリ・ヨアスタッド (著)、魯 恩碩 (翻訳)、教文館、2023年)

 

 旧約聖書にみられる以下のような記述は、擬人法ではない、と著者は言います。

 

「国が打ち捨てられ、あなたたちが敵の国にいる間、土地は安息し、その安息を楽しむ」(レビ記26:34)

「天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる」(イザヤ1:2)

 

「もろもろの星は天から戦いに加わり、その軌道から、シセラと戦った」(士師記5:20)

 

「とどろけ、海とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものよ。潮よ、手を打ち鳴らし、山々よ、共に喜び歌え。主を迎えて」(詩編98:7-9)

 

 擬人法ではないなら、どういうことなのでしょうか。

 

「わたしは旧約聖書全体を通して、著者たちが動物以外の自然を活動的で生きているものとし、つまり、人格として見ていたことを論証する。動物以外の自然とは、人間と動物を除く宇宙のすべての要素、つまり現代西洋でいうところの無生物的な自然を指す」(p.11)。

 

 「人格として見られていた動物以外の自然」とは何のことでしょうか。

 

「自然やその構成要素を原料や風景として見るのではなく、天地、山、木、川を、他の被造物と関わりを持ち、命令を聞き従うことができ、人間の蛮行に抗議し、嘆き、賛美し、人間の歴史に影響を与える被造物として表現しているのである」(同)。

 

 しかし、人間と動物以外の自然では、「嘆き」や「賛美」の表し方が違います。

 「ギルボアの山々よ、いけにえを求めた野よ、お前たちの上には露も結ぶな、雨も降るな」(サムエル記下1:21)。

 

 サウルとヨナタンが死んだときのダビデの山々や野への呼びかけです。人間は涙や泣き声で、しかし、大地は露や雨で湿ることのない乾きで、人の死を悼むのです。

 

「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」(詩編19:2)

 

 これも擬人法ではないと著者は言います。

 

「天は本当にコミュニケーションを行っているが、人間とは異なるコミュニケーションの手段を使っているのである・・・(詩編19:2は)人間のためのものではない(空の)話し方を描写している」(p.229)(引用内の( )内は引用者による補足)

 

 擬人法との違いを述べるのに、著者は、「パースペクティヴィズム」という語を用います。

 

「パースペクティヴィズムとは、すべての人格は世界を同じように経験するが、それは異なる身体によって行われるという考え方である」(p.176)。

 

 ここで言う人格には、星や大地なども含まれます。

 

「擬人化というのは、人間ではないものに人間の属性を押し付けることだ。人間であることが基本であり、人間でないものに人間の特性を適用することは反実仮想的であるという前提のもとにこの言葉はなりたっている・・・パースペクティヴィズム的な存在論を持っている人は、人間の経験を決定的なものとみなさない」(p.176)。

 

「パースペクティヴィズムによる世界との関わりは、すべての人格が自分の身体に適した方法で世界と出会うという考えを前提としているのだ。エレミヤが天に対して「恐れおののけ……」と呼びかけるとき、著者は天を擬人化するのではなく、被造物の秩序全体かYHWHに対する背信を嘆いているという確信を表明しているのである。ゼカリヤ書11章にある木々の嘆きは、すべての人格が自分の命を大切にしていることを確認するものである。被造物の秩序の各部分は、その「体」に応じて、異なる反応を示す。人間が慟哭し、粗布を着て、塵を頭にのせている間に、天は暗くなり、水分を蓄える」(p.177)。

 

 では、旧約聖書のこのような自然観から、わたしたちはどのような教訓を得るのでしょうか。

 

預言者たちが私たちに課した課題・・・私たちは、生態系的な黙示録を食い止めるだけでなく、動物や木々、牧草地が私たちを受け入れ、私たちと一緒に暮らすことを喜んでくれるような生き方をしなければならない」(p.200)。

 

「私たちは、気候変動を回避できる段階を過ぎており、原始時代に戻ることはできない・・・私たちにできることは、危機の範囲を限定することであり、そのために役立つのが預言書である。預言書は、私たちに原生地域保護や環境保護に従事するように求めるのではなく、良き隣人になるように求めている」(同)。

 

 これは原生地域や環境を守らなくてもよい、という意味とは違うでしょう。人間はこれらに対して、「保護する」という優越意識を捨てよ、保護者ではなく隣人になれ、ということでしょう。

 

 訳者も本書の意図を以下のように述べています。

 

「すべてのものが生きていて、すべてのものが人格であり、その一部のみが人間であるという新アニミズム的な世界観が旧約聖書の根底に横たわっているという本書の主張に訳者は衝撃を受けた」(p.312)。

 

 「すべてのものが生きている、人格である」とは人間や動物や植物、生物以外のものを含むすべての被造物のことでありましょう。

 

 けれども、これは、汎神論でも、被造物の神格化でもなく、「大地や山や川を・・・共に神を賛美する仲間として捉える」(p.312)ことなのです。

 

 「自然との関係性や自然の多面性を重視する「新アニミズム」という考え方は現代社会の人間中心主義を乗り越えるための処方箋として注目を浴びている。このような時代にこそ、我々は偏見と先入観を捨て、五書、預言書、そして諸書という奥深い古代の文献に秘められた自然観と環境倫理を新たな視点から再吟味するべきであると本書は語りかける」(同)。

 

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772 「食品を知れば、現代世界四大問題がわかる」・・・ 「食べものから学ぶ現代社会 私たちを動かす資本主義のカラクリ」(平賀緑、2024年、岩波ジュニア新書)

 これの少し前に「食べものから学ぶ世界史」というのも出ていますから、高校の科目を題名に入れてやろうというシリーズなのでしょうね。つぎは、「食べものから学ぶ日本史」「食べものから学ぶ政治経済」「食べものから学ぶ倫理社会」「食べものから学ぶ地理」あたりでしょうか。

 高校生向けだから、わかりやすいし、高校生向けだから、本格的ですね。ジュニアだけでなく、シニアが読まねば、というより、学ばねば、知らねばならない内容です。

 「コンビニに限らずスィーツや加工食品に使われることの多い、砂糖と油脂と塩は、食品生産者にとって「競争相手を負かすためだけでなく、消費者にもっと買わせるためにも利用される兵器である」と指摘する本もあります。砂糖、油脂、塩は、生産コストを抑えてくれる安い食材であるだけなく、これらを上手い塩梅に組み合わせると、人間の身体が必要とする以上に飲み食いさせることができると」(p.15)。

 

 日本では「スィーツ」などという言い方も、必要以上に砂糖や(主食や副食ではない)嗜好品を摂らせるカラクリなのではないでしょうか。

 

 「もう「需要と供給の法則」を素直に見られなくなります」(p.19)。

 甘いものを食べたいという需要があって「スィーツ」が供給されるのではなく、「スィーツ」の需要を捻りだし需要以上に売るカラクリがあれこれ産み出されているのです。

 

 「小麦の価格を決めるシカゴ相場も、ドルや円の交換レートも、需要や供給より、ただ値動きで儲けようとする「投機筋」が9割方を動かしている」(p.19)。

 「投資」は有益なものを生産するための協賛、資金提供ですが、投機には、生産物や事業内容への共感などではなく、買うときより高く売れるもの、という関心しかありません。

 

 「こうして形成されていたこんな現代社会だからこそ、自然のめぐみや生命の糧であるはずだった農業と食料システムが、今や気候危機の一大要因となり、飢餓と肥満を併存させ、人も地球も壊す存在になってしまっている」(p.21)。

 

 この良書は書名にもかかわらず文科省教科書検定には合格せず、高校の「現代社会」の授業で採用されることもないでしょうね。現代社会とは「飢餓と肥満の併存」とみごとに言い当てているのですが。

 

 「世界はますますタックスヘイブン化しているらしい。そのため、「富と権力を貧しい人々からゆたかな人々に移転する史上最大の力」のカラクリによって・・・年間2400億ドルか・・・7000億ユーロに及ぶ税収が、世界的に失われているそうです・・・タックスヘイブンに富を吸い上げられ続けたら、国家も私たちも地球の自然環境も、もう長くは持たないでしょう・・・農村への投資、子育てや教育への投資、保険やケアへの投資などなど・・・税収ロスによって、正しい富の分配機会が奪われているのだと思います」(p.76)。

 

 企業というものは、税によって造られたり運用されたりしているインフラなどはただで利用しているのに、タックスヘイブンによってまともな税は払わない、それによる税収不足もあり、農村、子どもたち、保険、ケアなどには公的資金がほとんど使われないのです。

 

 日本は食料自給率が低いと言われますが、その原因は「政府と財閥・総合商社も介入しながら、大手食品企業群が主に輸入原料を活用して日本の近代的食料システムを築いてきたと考えています」(p.97)。

 

 ようするに、食料自給率が低い原因は、海外から輸入したがる企業やそれを支える政府にあるのに、それをごまかしているということですね。

 

 63歳のぼくが今さらこういうことを学んだり考えたりしても遅い感はありますが、やはり考えないといけませんね。こういう本を出し続けている岩波書店はえらいです。

 四大問題って何って? 帯には「グローバル化、巨大企業、金融化、技術革新」ですね。これらの問題の解決の鍵は、農産業ではなく農にあるのではないかと思いつつあります。

 

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771 「聖書を農で読むヒント」・・・ 「農はいのちをつなぐ」(宇根豊、2023年、岩波ジュニア新書)

 

 

 「農村伝道神学校」というところで、ぼくは学者でもないのに、非常勤講師をさせていただいています。担当クラスで学ぶことは、むろん、農にかかわるものではなく、キリスト教の基本的な信仰内容です。

 

 それから、広島の山間部に移住して農にとりくんでいる友人らと、「農の神学研究会」というものをほそぼぞとやっています。

 けれども、ぼくは農をほとんど知りません。親父は高等農林を出ており、ぼくは農学部中退ですが。

 

 そういうわけで、この本を読むことにしました。知らない分野を学び始めるには、岩波ジュニア新書やちくまプリマ―新書がよいですね。

 

 「農」は産業としての「農業」を含みますが、もっと広く深く根本的なものです。つながれたいのちの営みそのものに関わると言っても良いかもしれません。

 

 この本のテーマのひとつは、まさに「いのち」ですが、「いのち」は「生きもの」のつながりであり、わたしたちは「食べもの」を通して「いのち」とつながる、つまり、「食べもの」は「生きもの」だと著者は言います。

 

 食べものには香りがしますが、これは生きものの属性だと言うのです。

 

 ごはん粒は「切り身ではなくまるごと姿をとどめた煮魚や貝汁の貝に似ている・・・それが生きていた時を想像させます」(p.53)。

 

 農の作物は「害虫」と呼ばれる虫を含む多くの生きものたちとともに育っています。したがって、食卓にたどり着く米や野菜の食べ物はそれ以外の生きもののいのちも背負っている、と著者は言います。つまり、食べものは「生きもの」のつながりのあらわれであり、それゆえに「いのち」であると。

 

 また、わたしたち人間も「生きもの」ですから、「生きもの」である「食べもの」を食べることは、「生きもの」と「生きもの」がつながること、つまり、「いのち」のつながりにあることだと。

 

 「死は必ず生につながるからです。「死」は決して、悪いことばかりではありません。農耕では、「死」は決して、悪いことではありません。農耕では、「死」は「実り」のことでもあるからです。さらに「また会える」という生死の引きつぎは、農耕によって人間のものになりました」(p.94)。

 

 「また会える」「生死の引きつぎ」はキリスト教の「復活」につながると思いました。もっとも、「復活」は人間の手によるものではありません。「また会える」も、人間の手によると言うよりは、「いのち」そのものの営みでありましょう。

 

 「私は、食べもの(生きもの)を食べることは、その生きものと「また会おう」と約束することではないかと思っています。そしてその代わりに食べもの(生きもの)の「いのち」をいただくことではないかと思うのです」(p.123)。

 

 「また会おう」と約束する。これは、わたしたち人間にもできることですね。

 

 「天地自然のめぐみを、天地自然に対価を払うことなく、無償で受け取ってきたのが百姓なのですから、お礼にやるべきこと(責任・宿命)が出てきます。その責任は、今年田畑で会ったすべての生きものと、来年もまた会えるようにすることで果たすことができます」。

 

 「来年もまた会える」ことも「天地自然のめぐみ」だと思いますが、人間はそれを妨げることがあってはならないと思います。

 

 農水省の「みどりの食料システム戦略」に「農業も環境に負荷をかけない持続可能なものに転換しよう」とあるそうですが、著者にすれば、「「環境への負荷」とは、生きものの「いのち」を傷つけていること、また「持続可能」とは、「いのち」がちゃんと引きつがれること」(p.174)なのです。

 

 「「農の原理」とは、生きとし生けるものの「いのち」を引きつぎ、次につなげることです」(p.176)。

 これは、「農の神学」のヒント、聖書やキリスト教を農の観点から考えるヒントがあると思いました。

 

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770 「キリスト教やその生い立ちの入門書ではありません」 ・・・ 「教父哲学で読み解くキリスト教 キリスト教の生い立ちをめぐる3つの問い」(土橋茂樹、教文館、2023年)

 三位一体論(神は唯一であるが父、御子、聖霊という三つの位格がある)やキリスト論(キリストの神性と人性)が築き上げられている過程に関わることがらが述べられていますから、書名に「キリスト教」とか「キリスト教の生い立ち」という言葉がまったくの偽りというわけではありません。


 しかし、イエスに始まる原始キリスト教会や教会の発展の歴史が述べられているわけでもなく、三位一体論やキリスト論の形成に関しても、本道を進むというよりは、細かな脇道の煩雑な議論に入り込んでしまっている部分が多々見られ、そこは、すっとばしました。

 

 「本書はキリスト教の入門書という性格を備えています」(p.5)という言葉は、上述のとおり、誤解を与えます。

 

 執筆者もうしろめたさがあるのか、「細かいことはあまり気にせずに読み進めていってください」(同)と記してあるので、そのようにさせていただきました。気にしないどころか、そこは読みませんでした。ページをめくっただけです。

 本道を進むための「細かいこと」なら良いのですが、じつは、「キリスト教の生い立ち」が本道ではなく、たとえば「九世紀のフォティオスによるクレメンス文書の報告は正しいか」(p.68)といった、キリスト教の生い立ちとはかなり離れたことの研究の方が本職ではないのか、そういうものを適当に並べて、「キリスト教の生い立ち」についての本に「仕立て上げた」のではないか、と思ってしまいます。

 著者の細かい研究の叙述では売れないので、こういう題にして、多少手を入れたのではないか、と疑ってしまいます。

 

 しかし、非専門家のぼくにも有益だった箇所はありました。

 

 「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています」(ルカ1:1-2)。

 

 この「御言葉」がロゴスであり、イエス・キリストを指していることにはこれまで気づきませんでした。イエス・キリストをロゴスと呼ぶのはヨハネだけだと決めつけていたからでしょう。

 

 ニカイア信条の、普及している日本語訳では、キリストは「造られずして、生まれ」とありますが、ここは、「生まれたものであって、造られたものではない」と訳した方がよさそうです。

 

 というのは、ぼくは「造られずして、生まれ」を「人間の親が生殖行為によって造ったのではないが(つまり処女降誕)、生まれてきた」と解釈していましたが、そうではなく、「造られずして」は「被造物ではない」つまり「創造者、神である」ことを意味し、「生まれ」は「父なる神の子である」ことを意味するそうです。

 そうすることで、キリストは父の子ではあるが、被造物ではなく、父なる神の下位存在ではなく、同質であり、神そのものであることを意味するそうです。

 

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769 「老いる読者へのちょっとステキな配慮」 ・・・「夕暮れに、なお光あり 老いの日々を生きるあなたへ」(小島誠志、川崎正明、 渡辺正男、 島しづ子 、上林順一郎 、キリスト新聞社、2023年)

 70代もできれば元気に過ごすためには、今から健康にと、15キロのダイエットを達成し、週二日は40分、それ以外にもなるべく歩くことを心がけてきましたが、この冬、血圧が高いのはちょっと残念。

 

 同業の、ひとまわりくらいか、先輩方はどうしておられるのでしょうか。

 

 「SNS情報によると、その時に「大丈夫ですか?」と聞くと倒れている人も「大丈夫です」と答えてしまうので、「お手伝いできることありますか?」などと声をかけると、相手はお願いしやすいと知った」(p.82、島先輩)

 

 SNSの有効利用ですね。

 

 「誰にとっても自分にないものを求められるのは暴力を受けるようなものだと思う。教会では時々、権威主義的なあり方を求められる」(p.86、島先輩)。

 

 同感です。「牧師が引っ張らないと」とか「牧師先生がまず名前を書いてもらわないと」とか言われますし、若い人や信仰を持っていない人にぼくの考えるところの神の愛や恵みを説得的に伝えることは苦手です。

 

 「他の人から非難されないように、キリスト者らしく、年齢相応に、リーダーらしく・・・・・。自由奔放に生きていると思われていたかもしれないが、これでもそれなりに他者からの評価を気にして遠慮してきたのだ」(p.88、島先輩)。

 

 非難されるのはぼくも嫌いだから、これでも避けています。「キリスト者らしく、年齢相応に、リーダーらしく」はあまり気に掛けたことはありません。「これでもそれなりに他者からの評価を気にして」ぼくもやっています。

 

 「何でも自分のペースが肝要だ。一週間の予定を立てて、自分のペースで取り組むと無理なくこなせる。だから、予定外のことはちょっと苦手かもしれない。急かされたりしたら動揺してしまう」(p.93、島先輩)。

 ぼくも、見開き一週間手帳に日にちごとにタスクを書いています。曜日ごとに決まっていることは、月に一度来月分を記入し、毎週金曜日に次週の予定を確認します。一日の予定はなるべく少なくして、楽にこなせる量にとどめます。その方が急用が入ってきても対応しやすいです。

 

 「人との約束も、仕事の集まりにも若かった時には滑り込みセーフが当たり前だったが、今は時間よりも前に着くようになった」(p.94、島先輩)。

 

 ぼくは若い頃から時間より30分以上前に着いていました。仕事をあまりしていなかったからでしょうね。

 

 「小学生が「おじいさん、どうぞ」と立ち上がった・・・「おじいさん」と聞いた途端、「イイよ、すぐ降りるからと口走っていました」(p.132、上林先輩)。

 

 「おじいさん、どうぞ」と言われて、「イイよ、すぐ逝くから」などと間違っても口走らないで、おばあさん、おじいさんは「平和の礎、希望の星」としてこの国の真ん中でどっかりと居座り続けましょう」(p.135、上林先輩)。

 

 ぼくは、隅っこが好きで、真ん中に座ったことがほとんどないので、それを続けることもできそうもありません。

 

 「イサクは「年を取り、目がかすんで見えなくなってきた」(創世記27章1節)、自分の息子の区別もつかずヤコブに騙されます。高齢化による認知症が始まっていたのでしょうか」(p.139、上林先輩)。

 

 新説ですか。当然ありうる解釈ですか。何気に上林節ですね。

 

 「本書の「あとがき」というより、わたしの人生の「あとがき」になってしまいました」(p.163、上林先輩)

 きっとあといくつもの「あとがき」を書かれるのではないでしょうか。

 

 夕暮れの光をプリズムで分析すると、そこには、ペーソスとユーモアがあるのでしょう。

 「老いの日々を生きる」ぼくとしては、行間と文字が大きめであることは、ありがたいです。一時間で読み終えました。1500円と税を払ったのに(^^;;;

 

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誤読768 「バルトの修辞と倫理と無償の神」・・・ 「カール・バルト《教会教義学》の世界」(寺園喜基、2023年、新教出版社)

 一番目。バルトは神学概念の定義に長けている。定義はむろん言葉でなされるが、その言葉には一定のリズムがある。あるいは、異なる二つのことの重ね合わせ、並列などの表現が用いられる。

 

 たとえば・・・

 

 「聖書神学は教会の宣教の基礎づけを、実践神学はその目標を問うが、教義学はその内容を問う」(p.34)。

 

 「神がキリストの十字架と復活において、人間の死をご自分のものとなし、ご自分の恵みと命を人間のものとするという、驚くべき交換」(p.57)。

 

 「神の戒めにおいては、当為は許可であり、許可は当為である」(p.69)。

 

 つまり、「あなたは人を殺してはならない」という神の戒めは「あなたは人を殺さないで生きていくことができる」ということでもある、というのだ。

 

 「教会の不可視性とイエス・キリストの神的本質、教会の可視性とイエス・キリストの人間的本質には対応、類比が存在する」(p.321)。

 

 つまり、イエス・キリストはまことの人でありまことの神である。まことの人として地上で過ごした期間は人の目に見えた。しかし、復活して天に昇ってからは人の目には見えなくなった。まことの神だからである。個別の教会は目に見える。しかし、これは、目に見えない世界共通の教会の一形態、一表現である。

 

 二番目。バルトはキリスト者の倫理を唱える。これはキリスト者の生き方であり、教会の意味である。

 

 「ボン大学の学長はドイツ式敬礼(右手を上げて「ハイル・ヒトラー」と叫ぶ)をもって全ての講義を始めるようにと通達したが、バルトはこれに抗して讃美歌を歌って始めた」(p.20)。

 

 キリスト者は、民を抑圧する支配者にではなく、民を解放する神に仕える、ということだろう。

 

 著者の寺園さんは「ボン時代から始まる(ナチズムに対する)教会闘争と『教会教義学』とは神学的に密接に関連している」(p.20)と指摘する。

 

 「イエスを十字架にかけたことにユダヤ人も異邦人も同罪であり、これは「決してイスラエルの特殊問題ではなかった」し、また「この民の特別な悪意、あるいは特別な運命に基づいているものでもない」(p.31)。

 

 たしかに、「イエス・キリストはわたしたちの罪のために十字架についてくださった」と言いながら、「ユダヤ人がイエス・キリストを十字架につけた」とも言える矛盾したキリスト教徒がいる。

 

 「神の全能は無性格なものではなく、道徳的・法的な方向性を持つ。すなわち神の全能は正義であり善である」(p.52)。

 

 キリスト者はこの神の正義と善に従う者である。

 

 「この世に対するキリスト的態度の基本的な規則は「互いに愛し合うこと」と言わねばならない」(p.71)。

 

 社会における不正義に抗うことは何も政治的なことではない。愛である。言い換えれば、「互いに愛し合う」キリスト的態度は根本的に政治的である。

 

 「人間の創造の目的は何か。それは、神のために生きることである」(p.83)。

 

 人間は神に生を与えられ、神によって生かされているのだから、神とともに生きるのであり、神のために生きるのである。

 

 「先に人間イエスは神のための人間であることを見たが、そこに人間イエスの神性を見た。それに対応して、人間イエスはその人性において他者のための人間である。人間イエス人間性は「他の人間と共にある人間性」であり、またイエスにおいては彼が「他人のためにいます人間」であるということである」(p.86)。

 

 イエスは先ほどのように「まことの神でありまことの人である」が、イエスの「まことの人」の人間性は「他の人間と共にある」ものであり「他人のためにいます」ものである。これは、わたしたち人間の本来の姿でもある。

 

 「教会が存在することは自己目的ではない。そうではなく、一つの目標を持つ。それは、人間世界の聖化を表示することである」(p.253)。

 

 イエス人間性、そして、わたしたちの人間性が自分ではなく他者のためのものであるように、教会も自分の栄光のためではなく、世界に神の聖性、愛を示すためにある。それは、すでにある神の愛を示すと同時に、神の愛を受けているにふさわしい姿に世界を変えていくことでもあろう。

 

 三番目。神の愛、救いがまず最初にある。人間や世界は神の愛を受ける条件を満たしているわけではない。神が無条件に最初から世界と人間を愛している。

 

 「ルターにおいては律法と福音、神の怒り・神聖性と神の恵み、という二元論が主張されたが、バルトにおいては、律法が福音の中に、神聖性が恵みの中に、神の怒りが愛の中に証しされていることが主張される」(p.48)。

 

 福音、つまり、神がわたしたちを救ってくださる、愛してくださる、ともにおられるという幸福な音信が、すべてに先立つのである。

 「人間がどのように悲惨な状態であっても、神の恵みの勢力圏の外にいるのではなく、内にいるのである」(p.242)。

 

 たとえどんなに絶望的に見えても、神の愛、神がともにおられることがそれに勝るのである。

 

 「神の愛は「選ぶ愛」である。選ぶ愛とは、神の愛が神の自由な行為であることを示している。愛の対象である人間は、神に敵対するものであり、愛されるに値しない。このような人間を神は愛されるのである。これは神の恵みに満ちた自由な選びに他ならない」(p.263)。

 

 優秀な者、望ましい者が選ばれるのではない。エリートが選抜されるのではない。望ましくない者が選ばれるのでもない。予定論とは、誰かがそのような意味で選ばれて救いを予定されていることではない。神が「選ぶ」「予定する」とは、相手(つまりわたしたち人間)がどんなものであっても、神の心によって救う、受け入れることである。神は無条件にすべての人を愛することをご自分のお心で選んだのである。

 

 「希望が力を持つのは、信仰者が希望を持つことによるのではなく、またこの希望が自分の将来を保証することによるのではなく、希望の対象が力を持つことによるのである」(p.333)。

 

 つまり、わたしたちが希望持つのは、わたしたちが希望を持つ意志や力が強いからではなく、希望の対象である神の救い、愛が圧倒的だからである。

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767 「神さまの愛が伝わるには」 ・・・ 「キリスト教とローマ帝国 小さなメシア運動が帝国に広がった理由」(ロドニー・スターク、2014年、新教出版社)

 イエス・キリストユダヤガリラヤで活動したのが紀元(AD)30年くらいまでですが、その後、キリスト教会が生まれ、成長します。信者は、紀元40年頃には1000人程度だったのが、紀元350年頃にはローマ帝国の人口の過半数である3400万人に達した、とする説があります。

 これにはどのような理由があるのでしょうか。また、衰退が言われている現在のキリスト教会はどのようなことを学べるでしょうか。

 

1)直接触れ合う親しい人間関係にわたしたちは愛着を感じますが、その愛着がキリスト教の宣教の一因になる、と考えられます。信頼する家族が信じている神だから自分も信じる、ということです。

2)世の中である程度の恩恵に与っていながらも自分は報われていないと感じていた人びとがキリスト教に改宗したことが考えられる、ということです。

 

3)古代ローマ帝国はたびたび疫病に見舞われましたが、多神教ギリシャ哲学はそれを説明することも、癒すこともできませんでした。しかし、キリスト教はその苦しみの理由と希望、未来像を提供できた、ということです。

4)疫病が猛威をふるう中、キリスト教徒は病人との連帯と奉仕でこれに対処し、キリスト教徒以外の人びとより生存率が高く、それがあらたな信者を生んだと考えられます。

 

5)疫病によって社会的ネットワークが破壊されましたが、キリスト教徒のネットワークは生き残り、そこに加わる人びとが多くいて、信者が増えたと考えられます。

 

6)3)~5)と重なりますが、キリスト教徒は、病人、瀕死の者を労わり、死者を丁寧に葬り、そのことに物惜しみしなかったということです。

 

7)キリスト教徒は福祉国家のミニチュア版を社会の中に作り上げました。それは「ひとにしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(マタイ7:12)、「受けるより与える方が幸いである」(使徒20:35)などの聖書の言葉に基づいていました。

8)「神さまが人を愛する、また、神さまが人を愛するから人は互いに愛し合う」という教えは当時の多神教にはなかったそうです。

 

9)キリスト教徒は「この世の命は前奏にすぎないと確信」(p.116)していたそうです。

 

10)これに関連して、ヤコブパウロ、ペトロと言った紀元60年代の殉教者たちの存在はキリスト教徒を鼓舞したようです。

 

11)キリスト教の歴史や聖書の研究者たちのあいだでは、女性がキリスト教会の始まりから高い地位と権威を持っていたという共通見解がありますが、当時の他の社会では見られない、このような女性の存在がキリスト教会の成長の一因だと考えられます。

 

12)殉教者の多くが女性でした。

 

13)当時の多神教世界では女性は思春期になる前から結婚を余儀なくされていましたが、キリスト教徒の女性はもっと上の年齢になってから結婚し、相手を選ぶこともできたそうです。

 

14)ローマ社会では女性は生まれた時に間引きされたり、成長しても危険極まりない中絶で死んでしまうことが多く、男性の人口の方が多かったのですが、キリスト信者の間では、そのようなことがなく、女性の方が男性より多かったそうです。すると、一定数の女性たちは非キリスト教徒と結婚することになりますが、その夫がキリスト教に改宗するケースが多かったそうです( 1で述べた「愛着」を思い出してください)。

 

15)当時のローマ帝国の諸都市にはさまざまな問題がありました。たとえば、貧しい人や家のない人もたくさんいましたが、キリスト教徒は慈善活動をし、この人びとに希望をもたらしました。あたらしく都市に来た人びとにはネットワークを提供しました。孤児と寡婦も多くいましたが、キリスト教徒はその人びとを支えました。こういう考え方は多神教世界にはなかったそうです。

 

16)多神教の神々は人間に愛情を抱くなどということはありませんでしたが、キリスト教徒の聖書は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)とあり、これは異教徒の教養人には驚くべきことでした。

 

17)ユダヤ地方から始まり、ローマ帝国の諸都市においても、最初は、その地のユダヤ人の間に伝わったキリスト教でしたが、やがて、その地に集まっていたユダヤ人以外のさまざまな民族にも広まりました。その際に、キリスト教はどんな民族の人びとも受け入れました。

 

18)「何にもましてキリスト教は、気まぐれな残虐さと他人の死に喝采する風潮に満ちた世界に、人間性という概念をもたらし」(p.270)ました。

 

19)教会に人があふれているほど、信者が熱心に讃美歌を歌い祈っているほど、それを見た人びとは、自分はとてもすばらしいところに来ているのだ、という思いを強くする、ということです。

 

 ようするに、神さまは愛の神さまである、という教えと、それに基づいた、信仰者の愛の行動が、神さまを信じる人びとを増やしたのではないでしょうか。


 むろん、現代社会の文脈の中で、教えの表現、伝達方法や愛の行動のあり方をじっくり考えなければならないでしょう。

 

 キリスト教発展の歴史分析として、あるいは、現代のキリスト教宣教のヒントとして、適切でないものもあるかもしれませんが、適切なものも多く見受けられるのではないでしょうか。


 

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