(19) 「産み、育て、無償で与え、力を満たしてくれる存在」

 子どもたちは母親とよく話をします。とくに父親が留守だったり寝室や仕事部屋にこもったりしているときは、とてもリラックスするようで、食卓で向かいあったり、リビングのソファに並んで腰かけたりして、サポートするJリーグ・チームの最近の試合のことや、中学の部活のこと、学校でのこと、友だちのことなど、いろいろ話しているようです。

 そうしながら、子どもたちは気持ちの充電をしているように思えるのです。プラスのエネルギーやスピリットをチャージしているように見えます。彼らの心の中に、何かあたたかなもの、やさしいもの、さらに言えば、生きる力そのものが充ちていっているのではないでしょうか。

 そこで貯めたものの大半は毎日の生活で消費されてしまうので、また補わなければならず、子どもたちはくりかえし母親と話をすることになるのですが、消費されてしまうことなく、土に浸み込む水のように、あるいは、土に落ちる葉のように、子どもたちの心の奥底に沈み込み、魂の基となっていっているものも、きっとあることでしょう。

 母親と子どもたちの間のつながりは、これ以外にもいくつかの横顔を持っています。たとえば、母親は何年か前に子どもたちを産み、そして、何年も育ててきました。それから、母親は子どもたちに、衣食住など必要なものを、ときには、ややぜいたくなものをも、そして、洗濯、掃除、付添、賃労働など多くの労力と時間を、すべて無償で与えてきました。産んで養う、無償で与える。これらも、さきに記した生きる力の補てんとならんで、母親が子どもに対して持つ横顔です。

 尊敬する人、と言って、すぐに思い浮かぶのは、S先生です。S先生は父親のように抱擁してくださいました。けれども、仕事のつながりでは、S先生は、ぼくのことも「先生」と呼んでくださいます。このとき、S先生は仕事仲間、友となってくださいます。しかし、S先生とはふだんそんなにお会いしているわけではありません。それでも、S先生のご著書を読むとき、S先生が横にいて語りかけてくださっておられるように感じます。S先生の文章や思想にとても慰められます。

 聖書には、「父なる神」、その子である「御子イエス・キリスト」、そして、「聖霊」という存在が登場します。そして、これらは、皆、「主」と呼ばれます。「主」とは、「わたしを治めてくださる主君」というような意味で、神のことを指す言葉です。けれども、聖書に神が三人出てくるわけではありません。

 そうではなく、「父なる神」という表現では、神はわたしたちとわたしたちの生きる世界を創造してくださったことなどを、「御子イエス・キリスト」という表現では、神はわたしたちの友となりともに生きてくださることなどを、「聖霊」という表現では、神はわたしたちをいのちで満たしてくださることなどを伝えようとしているのです。