(2) 「もしかしたら神はいるかも、と思うとき」

 友達みんなから見捨てられ、ずっとひとりぼっちで、もうどうしようもない、神さまなんていやしないと、絶望のどん底に落ちてしまったとき、たったひとりだけ味方になってくれる人があらわれ、とてもよく助けてくれた。そんな良いことがあったり、そんな良い人にあったりすると、もしかしたら神さまっているかも、という気持ちになることがあります。

 愛ややさしさも同じで、目には見えないのですが、具体的なことを通して感じられます。小さなお子さんと一緒にいながら、スマホに夢中になっている大人を見ても、愛を感じることはできません。たとえ、その人が本当はやさしい人で、子どものことを心から愛していて、でもその時は、たまたま、急いでメールに返事をしなくてはならなかっただけだとしても、その姿からは、目に見えない愛を感じることはできません。

 はんたいに、公園かどこかで、子どもと遊び、笑顔で子どもとやさしい言葉で話している人を見ると、その人の内側にある目に見えない愛を感じます。

 愛する心とか、やさしさとか、何かを大切に思っている気持ちとか、そうしたものは、目に見えませんから、やはり、その人の言葉や行動、その人の言うこと、することなど、具体的なことから伝わって来ます。

 誰も手伝ってくれないときに、たった一人手伝ってくれる人がいたら、やさしさを感じます。誰もわたしたちのことをわかってくれないときに、たった一人話を聞いてくれ、わたしたちの訴えにうなずいてくれる人がいたら、愛を感じます。

 では、神や神の愛はどうでしょうか。聖書では、イエスのことを「神の子」とか、「神から遣わされた者」とか、「神自身」とか呼んでいます。「神の子」なのか「神自身」なのかはっきりしてほしい、と突っ込みたくなりますね。

 二千年の昔、イエスのやさしい言葉を聞いたり、病気の人や困っている人、誰からも見放されてしまったような人にイエスが近づき、寄り添う姿を見たりして、ああ、神さまってやはりいるんだなあ、愛って本当にあるんだなあと感じた人びとがいました。イエスの言葉や行動は、こんな人はめったにいない、こんなにやさしい人はいままでどこでも見たことはないと感嘆するくらいのレベルだったのだと思います。

 そうした人びとの実体験にもとづいて聖書が書かれ、のちに聖書を読む人々も、イエスを神の子だとか、神自身だとか感じるようになったのです。あるいは、聖書に書かれているイエスの姿を見て、神はやはりいるなあ、と信じたのではないかと思います。