(70)「神は慕わしくも厳しく、厳しくも慕わしいお方です」

 こんなやさしい人は他にはいないと思って一緒になったら、じつは、まったくやさしくない人だったということではなくても、じつは、きびしい面も持ち合わせている人だったということはないでしょうか。

 生徒や学生がとても伸び伸びしていると思って入学してみたら、じつは、かなり勉強するように仕向けられたり、部活もきつかったりりしたということはないでしょうか。

 人にも組織にもいくつかの顔があります。そして、それはかならずしも、表と裏というようなものではなく、どちらも真実の顔である場合もあるでしょう。

 聖書によりますと、イエスは、神は、畑を耕していたらたまたま掘り当てた宝、あるいは、良い真珠を探していた商人が見つけた最高の真珠のようなものだ、と言っています。そして、見つけた人は、全財産を売り払ってでも、それを買い求める、と言っています。

 偶然にしろ、探し求めた結果であるにしろ、神との出会いは、人生のなにものとも比べることのできない、決定的なもの、逃してはならないものだということでしょうか。神は、人間にとって、それほどに慕わしいものとして語られているように思います。

 けれども、この話に続いて、神の国とは、漁師が網にかかった良い魚と悪い魚をわけるようなものだとも言っています。悪い魚は捨てられるのです。悪人は燃え盛る炉の中に投げ込まれるとも言われています。厳しい話です。

 しかし、これは、良いことをした人は天国へ、悪いことをした人は地獄へ、というような単純なことではなくて、神は、わたしたちの中にある悪を抑え、善を導き出そうとしている、というようにも読めます。悪人をではなく、悪を世界から消し去ろうとしていると。わたしたちを善に導こうとしていると。

 たとえ、そう解釈したとしても、善に促され、善を求めて生きる道もまたきびしいことでしょう。

 あんなに慕わしかった神が、こんなに厳しかったと、と嘆く人もいるかもしれません。

 しかし、わたしたちは厳しさに促された方が、善を求めるというすばらしい道を歩めるとも考えられ、ならば、神の厳しさもまた、ありがたいものとならないでしょうか。