(60)「いいねやすごいねをもらわなくても大丈夫です」

 ある高校の先生が言っていました。四月になるとクラスがあたらしくなり、生徒同士の関係は、最初はぎこちなかったり、不自然だったりするそうです。ところが、五月、六月になり、「おちのない話」ができるようになると、それが、打ち解けてきた証拠になるとのことです。

 「おちのない話」とはどういうことでしょうか。皆、最初は、自分をアピールしようと、おもしろい話、受ける話をしようとするそうです。そして、それによって、いいねとか、すごいねとか、思われたいようです。ところが、打ち解けてくると、おもしろいと思われなくても、受けなくてもよくなくなり、この問題は難しいねとか、部活はしんどいねとか、とくにおもしろくもないし受ける必要もない、日常の話ができるようになるようです。けれども、打ち解けるまでは、おもしろいね、受けるね、いいね、すごいね、と認められようとする時期があるとのことです。

 話しは変わりますが、最近は、スマホの進化によって、手軽にきれいな写真を撮れるようになりました。庭、公園、街角を彩る花々や緑の木々、日光や町の光を反射する川、水色の空、おいしいランチやデザートなどを、パチッと写すことを日常の習慣にしている人も少なくないでしょう。

 わたしも、一日に一回から数回は、これはいいね、と思うものにレンズを向け、シャッターを押します。ひとつのものを何度か撮り直すことがあります。それから、それらを見て、よいものを選び、さらに、トリミングをしたり、明るさを調整したりします。SNS(インターネット)に投稿するためです。

 誰かに見てもらい、さらには、「いいね」や「すごいね」をもらいたいからです。そういう反応があると、すこしうれしくなったり、心がはずんだり、気持ちが明るくなったりします。満足、肯定のような気分も感じられます。

 聖書によりますと、イエスの時代にも、自分のことを人に見てもらい、ほめてもらいたい人がいたようです。わざわざ人が見ている前で、誰かに施しをするとか、いかにも信心深そうに祈ってみせるとか、そういう人がいたようです。

 イエスはそういう人は「既に報いを受けている」と言います。すでに、人の賞賛を受けている、と言います。このような言い方によって、イエスは、人を本当に支えるものは、他の人からの誉め言葉ではなく、神さまの愛だ、と説いているのではないでしょうか。

 さらには、その愛は、良い言動への褒美ではなく、無条件に贈られるプレゼントだと、イエスは深く感じていたのです。

 人からの承認を過度に求めるとわたしたちは苦しくなってしまいます。そういうとき、わたしたちの源であり、いのちと世界の源である存在が、わたしたちを無条件に肯定していてくれる、こういう考えに触れると、何か得るものがあるのではないでしょうか。