(8) 「もてなしながら、じつは、もてなされている」

 大切な人が家を訪ねてくれたら、精一杯のおもてなしをしたい、とわたしたちは思います。話をしていて楽しい人、おたがいにいくつかの大事な点で分かり合え、慰められたり励まされたりする人、そういう人が家に来てくれたら、おいしいものでもてなし、ゆっくりくつろいでほしい、とわたしたちは願います。

 悩んでいる人がいたら、友達が困ったり疲れたりしていたら、少しでも楽になってほしい、そのためにできることがあれば役立ちたい、とわたしたちは思います。話し相手になったり、代わりに買い物などに行ったり、良さそうな解決法を教えてあげたりしたい、とわたしたちは願います。

 病気でもうあまり長く生きられない友達がいたら、どうするでしょうか。宮澤賢治は「死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいといい」と言いますが、これはなかなか難しそうです。「こわがらなくてもいい」とはなかなか言えません。けれども、賢治が「行って」と言うように、わたしたちも「行く」ことはできるかも知れませんね。自分の時間を少し削ってでも、まめに見舞うことはできるかも知れません。たとえ、友達がよく寝ていて、そばにしばらくいるだけで、話をせずに帰るようなことが何度かあるかもしれないとしても。

 このように友達をもてなしたり、大事にしたりすることができれば、すばらしいとわたしたちは思います。けれども、自分がもてなされる立場に立つとどうでしょうか。もしかしたら、人の家に呼ばれるのが苦手とか、その時期は忙しいとか、悩んだり苦しんだりしていてもあまりかまわれたくない、静かにしていてほしいとか、そういう気持ちの時もあるのではないでしょうか。

誰にも会いたくない、病院にも来ないでほしい、というような思いの時もあるのではないでしょうか。ところが、そのような時であっても、相手のもてなし、相手の好意を受け入れることもあります。せっかくこうしてくださるのだから、とそれを受け入れることがあります。

 こう考えると、もてなす方だけでなく、一見もてなされているように思える方も、じつは、もてなしているように見える方をもてなしているのかも知れません。

 ボランティアに出かけたとき、最初は、はじめてのボランティア活動でどきどきしていたのが、相手の方に笑顔で「ありがとう」と言っていただいて気持ちがとても和んだ、自分が受け入れていただいた気持ちになったという経験はないでしょうか。

 聖書を読みますと、イエスがある家で夕食に呼ばれていた時、マリアという女性がイエスの足に高価な香油をたっぷりと塗り、髪の毛で拭った、その部屋には芳香が満ちたとあります。

 わたしたちがイエスの立場だったらどうでしょうか。他の人もいる食卓でそのようなことをされるのには、ためらいや違和感が起こるのではないでしょうか。恥ずかしいからここでは止めて、と言いたくなるのではないでしょうか。

 けれども、イエスはそのもてなしを拒むことなく、受けいれました。マリアも、きっと、自分も足に香油をぬってもらっているような気持ちになったのではないでしょうか。もてなすことで、もてなされる。もてなされることで、もてなす。その喜び、その幸せが、芳香とともにその部屋には満ちたことでしょう。