(54)「神に見捨てられたと叫ぶ人によって、かえって、神とのきずなが取り戻される」

 とても嫌なことがあり、傷つき苦しんでいるときに、「気にしない方がいいよ」とか「忘れてしまった方がいいよ」と声をかけてもらうのは、とても感謝すべきことです。けれども、わたしたちは、押しつぶされるような痛みを気にしないようにして気にしなくなったり、心が張り裂けそうな傷みを忘れようとして忘れてしまったりすることは、なかなかできないのではないでしょうか。お酒やテレビやネットやおしゃべりなどでその間だけは、そして、心の表面だけは、まぎらわせることができるかもしれませんが。

 「それは、ほんとうに苦しいよね」「それは、ひどいめに遭ったね。それは、すごく傷つくよね」。とても苦しいときは、このような言葉をかけてもらい、心の痛みが少し和らぐことがないでしょうか。

 映画やドラマで、海に向かって「ばかやろう」と叫んでいる人がいたとき、別の人が出てきて、「そんなことはやめなさい」と言うより、一緒になって「ばかやろう」と叫んでくれる方が、心が慰められるのではないでしょうか。

 悲しい音楽や物語に触れるとき、こちらも悲しくなりながらも、そのことによって、かえって、こちらが以前から抱えていた悲しみが愛おしく感じられることがないでしょうか。

 聖書によりますと、イエスは権力者たちに捕まえられ、尋問され、侮蔑され、虐待を受け、十字架につけられ、息を引き取りました。「わが神、わが神、どうしてわれを見捨てたのか」と叫びながら。

 これを目撃して、「ああ、この人は神の子だった」と強く感じた人びとがいました。その人びともまた「神に見捨てられた」というほどの苦しみを抱えていて、けれども、奇跡などを起こすことで神の子と呼ばれていたイエスもまた、万能ではなく、「神に見捨てられた」と叫ぶことで、自分たちの苦しみがわかってもらえた、ともに担ってもらえた、と痛いほどに感じたのではないでしょうか。

 そして、かつて神の子と呼ばれるほどに万能に見えた存在が自分たちと同様に「神に見捨てられた」と叫んでくれることによって、かえって、見捨てられたと思っていた神とのつながりが回復されたという、逆説的な救いを深く味わったのではないでしょうか。