(3) 「宝くじを買いつづけるだけでなく」

 6億円当たれば30年としても毎年2000万円も使える!などと夢見ながら、300円の宝くじを毎週買い続けている人はいないでしょうか。

 若いころ、友人と激しいケンカになったことがあります。あなたのこことここが間違っている、自分はこれこれこういうふうに間違ったことはしていない。メールや口頭や手紙で、これを相手に訴え、納得させたい。そういう思いが毎日湧き出てきて、頭の中で何度もシュミレーションして、ときには、実行してみる。それでも、相手は折れない。関係は回復しない。自分の苦しい思いも癒されない、そんな日が何か月も続きました。

 ある日、いつものように、朝からそのような重い気持ちで胸が塞がり、どうしようもなく、思い切って別の友人に相談してみました。すると、ケンカ相手のその友人は気性が激しい、これまでにも攻撃的なときが何度かあった、という返事が来ました。

 これを聞いて、気持ちがすっと楽になりました。ああ、あの人も心を乱していたのだな、感情的になっていたのだな、あの人にもそういう弱いところがあるのだな、そういう小さな姿があったのだな、と思えたのです。それまでは、上から威圧的に物を言う冷徹な権力者に思えていたのですが、ああ、あれは、あの人も我を失っていたのだな、あの人にもそういう人間的な欠点があるのだなと思うと、心が臨戦状態から共感、安心に変わったのです。そして、自分の筋を訴え続けなくてももういいかなと思えるようになりました。自分の主張一直線、自分の目標まっしぐらの高速道路を下りてみると、のんびりした田舎道があったのです。

 宝くじを買いつづけ当選を待ち続けたり、出世や栄転、よい仕事の獲得など、ひたすら幸運を願いつづけたりするだけでなく、ふと立ち止まって見たら、六億円を当てることや相手を説得すること、あるいは、高給高位の職を得ること以外にも、自分の人生のゆたかさを発見できるかもしれません。

 イエスの時代、病気や怪我を治すと言う池がありました。水が時々動き、そのタイミングで池に入った者は癒されると。周りではたくさんの人々が待っていました。なかに、38年待ち続けていた人がいました。けれども、水が動くたびに、他の人に押しのけられ、池に入ることができませんでした。三年前もだめ、おととしもだめ、去年もだめ、そして、今年こそと思っていましたが、今年もだめでした。

 イエスはその人を見て「起き上がりなさい。歩きなさい」と言いました。すると、その人は立ち上がり、歩き始めたと言います。あんなに待ち焦がれた池には入ることができなかったのに。

 ひたすら待ち続けていたことが実現しなくても、その道筋から一歩出て、あたりをゆっくり見渡してみると、別のゆたかなことが人生にはあることをイエスは教えてくれたのではないでしょうか。