「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(山本芳久、慶應義塾大学出版会、2014年)
トマスと言えばスコラ哲学、スコラ哲学と言えば、重箱の隅をつつくような机上の空論、冷たい学問と思いがちです。けれども、この本を読んで、たしかに緻密な議論はするけれども、トマスはいわゆる学問のための学問をしているのではなく、わたしたち人間の根底には「否定」ではなく「肯定」があることを綿密に解き明かそうとしたのだということを学びました。
もうひとつ学んだことがあります。プロテスタントの傾向かも知れませんが、聖書は、わたしたち人間の限界、罪、わたしたちが救いようのない罪人であることを知らせ、その上で、そのようなわたしたちを救う神を示しているという考え方がキリスト教の中で一定の割合を占めていると思います。
けれども、この本によると、トマスは、イエス・キリストは、人間の可能性を示した、わたしたちが限界を打ち破り、人間のあるべき真の姿により近づいて行くための道をつけたと説いているのです。キリストはそのパイオニアなのです。
「人間本性の輝きが、罪や悪に妨げられずに、最も純粋に露わになったのがキリストの生涯だとトマスは捉えている」(p.178)。
キリストによってわたしたちの「本性の輝き」が導き出されるというのですが、この本ではそれを「根源的肯定性」と呼んでいます。ここには「人間はとことん罪人だ。どうしようもない罪人だ」という(少なくとも、それ一本やりの)人間観とは異なる新しい展望があります。
「生れてきた否定的な感情から眼を逸らすことなく直面し、それを通してその感情を生む原因となった否定的な現実に対しても心を開いて直面すること自体のなかに、否定的な感情を抱えながらもそれに打ち負かし尽くされない肯定的な精神の力が発現してくる。人間精神の有している『根源的肯定性』とでも名づけるべきこのような在り方を・・・」(p.27)。
このことを、著者によれば、トマスは「ゲッセマネの祈り」からも説き明かしています。
マルコ福音書にはこうあります。「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。
この箇所は、苦しみから逃れたいという思いと神の意志に従いたいという思いの間で葛藤があったが、キリストにおいては、最後は後者(「神の意志に従う」)が勝ったというように解釈されてきました(トマス以前も、以後も)。
しかし、トマスはそうではないと言うのです。たしかに、キリストにも恐れや悲しみはあったが、それは、キリストの精神を支配してしまうかのような在り方ではなかったと言うのです。人間は、自分にとって否定的な出来事が起こっても、それに伴って生じる感覚や本能的欲求を乗り越えて、その出来事を受け取りなおせると言うのです。
「キリストは・・・・人間自体のなかにもともと潜んでいた肯定的な可能性をあらためて顕在化させたのだ」(p.209)。
わたしたちは、苦しいことがあるとそれに打ちのめされたり、場合によっては、非行に走ったりすることがあります。そして、フロイトの「深層心理」やキリスト教の「人間皆罪人」という認識にかまけて、それを言わば「正当化」あるいは「妥協」してしまうことがあります。
わたしたちの心身が外傷によってどれほど打ちのめされるかを十分にわきまえたつもりの上で、今思いなおせば、それを乗り越えて、それに精神のすべてを支配させない生き方、ネガティブに陥らない肯定的な生き方も捨ててはならない、少なくとも最初から放棄してはならないのでした。
キリストは十字架上で苦しみから逃れたいと思いましたが、神の意志に従うことが、葛藤するまでもなく、最初から優っていたとトマスは言うのです。
ぼくも、苦しいこと、嫌なことがあればそれで精神を支配されそうですが、自分の中にそれにもまさる「根源的肯定性」が与えられていることを、これから考えていこうと思いました。