95 「他力の徹底は、他力の相対化か」

「宗教のレトリック」(中村圭志、トランスビュー、2012年)
 
 レトリックと言うと、現実から離れた、あるいは、現実をごまかすための、机上の巧みな言葉遣い、という印象もあるだろう。
 
 けれども、言葉以前の何かを、どうにか言葉にして伝えるための手法、という側面もある。

 その人のことを何とか言葉で言い表そうとすると、「あなたは太陽だ」という隠喩や、「あなたは太陽のようだ」という直喩が生じる。

 本著では、ほかに、提喩、逆説といったレトリックから、宗教について考えている。

 ガウタマという人には、誰かの子であるとか、夫であるとか、どんな地位にあるとか、さまざまな側面があったであろうが、そのなかで「目覚めた人(ブッダ)」という側面を前面に出し、それが彼の本質であるとして、彼をブッダと呼ぶ人々がいた。雪は、白く、冷たく、空から舞う、というように、いくつもの性質をもつものであるが、「白いもの」という言葉で雪を指すように、部分で全体を表す比喩を提喩と呼び、ガウタマをブッダと呼ぶのはその一種であると言う。大工、マリアの子、治療家などいろいろな顔を持つイエスをキリストと呼ぶのも同じこととして挙げられる。

 「善人なほもて・・・いわんや悪人をや」に代表される逆説について、著者は、ふたつの機能を挙げる。ひとつは、視点をずらすこと、つまり、救済者という、人間を超越した視点に立つことであり、もうひとつは、その衝撃性、魅力によって信者を引き留めることである。

 後者は宗教を保守的なものとするが、前者は、宗教を解体する可能性を内包している。著者は吉本隆明を引用し、親鸞は人間の自己救済を相対化したところにある他力をも、さらに相対化し、他力を絶対化させないために弟子をとらなかったことをあげる。

 この指摘は新鮮だ。ぼくは人間の相対性を言う以上、論理的にも実存的にも神学的にも、他力、あるいは、恩寵しかないと確信していたが、それをも相対化する親鸞の洞察は深いと思った。自力を相対化し、他力による救済という信仰を徹底するなら、その他力信仰さえ相対化されなければならない。

 著者は言う。「逆説から真理を学ぼうとする者は、逆説だけではどうにもならないことも学ばなければならないだろう」(p.209)。「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」というパウロの言葉が真理であり、逆説の、ある種のそう快感を持つとしても、その強弁や割り切りゆえに、苦しんでいる人もたくさんいるのだろう、と考え直させられた。