「ふかいことをおもしろく 創作の原点」井上ひさし
この本に書かれていることのほとんどは、井上ひさしの読者なら「いろは」に属することの復習ですが、今から井上作品を読もうという人には良い入門書になるかもしれません。
しかしながら、つぎのような言葉には、あらためて含蓄を覚えました。
「僕の芝居には必ずといっていいほどユーモアや笑いが入っています。それは、笑いは人間が作るしかないものだからです。
苦しみや悲しみ、恐怖や不安というのは、人間がそもそも生まれ持っているものです」(p.89)。
「この「生きていく」そのものの中に、苦しみや悲しみなどが全部詰まっているのですが、「笑い」は入っていないのです。なぜなら、笑いとは、人間が作るしかないものだからです」(同)。
自分の気持ちを見れば見るほど、そこには、痛みや孤独やむなしさや恐れや心配や絶望や渇きしかないことを思い知らされるばかりです。どんなに自分の中を探しても、安らぎも温もりも充実も勇気も安心も希望も見つかりません。「笑い」はそこにはないのです。
だから、「作るしかない」と井上ひさしさんは言います。
だけど、「読むしかない、あるいは、聞くしかない」とぼくは言ってみましょう。
わたしたち人間の中には、自分の中には、救いはありません。救いは、わたしたちの外にしかないのです。救いも癒しも平安も希望も、すべては、わたしたちの外にある聖書に読み、外から語られる神さまの声に聞くしかないのです。
井上さんは「笑いは人間が作るしかない」と言います。聖書や神さまの声は、人間が作ったものではありません。しかし、両者には通じるものがあります。それは、井上さんが作る笑いも、聖書や神さまの声も、ぼくにとっては、ぼくの外から語られる「物語」だという点です。
「笑いは共同作業です。落語やお笑いが変わらず人気があるのも、結局、人間が外側で笑いを作って、みんなで分け合っているからなのです。その間だけは、つらさとか悲しみとかいうのは消えてしまいます」(p.91-92)。
福音も共同でわかちあうものでしょう。わたしたちは自分の頭や心の外側で、福音の物語を、皆で一緒に聞くのです。こうして、礼拝の時間と空間に現れる福音は、わたしたちがそれ以外のつらく苦しい時間と空間にあるときも支えてくれるのです。
なお、この本は、NHK BSの「100年インタビュー」という番組を文字化したものとあるが、字と行間は非常に大きいうえに、120頁にも満たないものですが、ハードカバーでごまかし、1100円の定価をつけています。井上ひさしさんが亡くなった後からの出版ですから、ご本人のせいではありませんが。