(49)「人の苦しみを痛感し、我が身を痛める」

「同情」という言葉があります。「同情はやめてくれ」というように、幸福、幸運、立場、能力、成果などにおいて自分は優位だと思っている人が劣位に位置づけている相手を高みから「かわいそうなやつだ」と見下す心情を指すように思われがちです。しかし、文字に注目しますと、「情けを同じくする」とあります。つまり、相手と心を同じくする、相手と気持ちを同じくしようとするということでしょう。

英語にはコンパッションという言葉があります。コンとパッションが合わさった語ですが、コンには「一緒に」「ともに」というような意味があり、パッションには「情熱」「激しい感情」という意味がありますが、さらには「イエス・キリストの受けた苦しみ」という意味もあります。つまり、コンパッションは、「同情」「共感」、さらには、「共苦」とも訳し得るのです。

沖縄には「チムグルサ」という言葉があり、漢字ですと「胆苦さ」となるそうです。これは、誰かが傷んだり苦しんだりしているのを見、わがこととして心痛を覚え、いても立ってもいられない心のあり方を指すようです。

新約聖書によりますと、イエスが異邦人(ユダヤ人ではない人々)の地域に行くと、異邦人の女性から、苦しんでいる娘を助けてくれと懇願されます。

しかし、イエスは「主(しゅ)よ、わたしを憐れんでください」という彼女の第一声には何も答えませんでした。「主よ、どうかお助けください」という第二声に対しても、イエスは、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と答えます。「子供たち」とはユダヤ人のことであり、この言葉は、ユダヤ人のための救いを異邦人にわたすことはできない、という意味になります。

けれども、驚くべきことにこの女性は「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」とイエスに切り返します。イエスはそれを聞き、ついに「あなたの願いどおりになるように」と言い、娘の病気が癒されたと聖書は記しています。

この物語は何を伝えようとしているのでしょうか。熱心に願えば、祈れば、叶えられるということでしょうか。それとも、イエスは、この女性の切返しの言葉に感心したということでしょうか。

そうかもしれませんが、こういうふうにも考えられます。イエスは、この女性の三度の訴えによって、この女性の痛みと苦しみをわがこととして痛感したのだと。イエスのコンパッション、イエスのチムグルサだったのではないでしょうか。