(7) キリスト教の幅

 聖書を信じる、神はただ一人と信じる、イエスを信じる。新しい宗教をおこしたり、自分ひとりの信念の枠の中にとどまったりするのなら別ですが、既存のキリスト教会という共同体の中でキリスト教を信じる、あるいは、信じようとする時、これらみっつのことを信じたり、信じようとしたりすることが欠かせないと思います。

 けれども、要点を押さえるならば、その信じ方はいろいろあってよいと思います。聖書を信じると言っても、たとえば、聖書は人間の言葉や手を用いてであっても神さまが書いたものであり、一言一句、書かれているとおりであり、まったくの事実であり、かならず守るべき教えであるというような信じ方もあれば、聖書は神さまのメッセージを伝えているが、それは一言一句を通してというよりも、全体、あるいは、言葉や文のまとまった単位をとおしてであり、つまり、細部よりも大意が大切である、また、聖書の各巻を編集したり、編集された各巻を集めたりする際に人間の意図が加わっていて、その意図には信仰的なものもそれ以外のものもあるとし、そのような分析的な研究を通して、かえって聖書のメッセージをゆたかに受け取ることができるというような信じ方もあります。

 両者は正反対のようにも思えますが、自分以外の声や言葉として聖書に聞く、聖書を読むという点では共通しているということもできるでしょう。大事なことは、自分の外に言葉を求めるということです。自分でない者、つまり、他者に聞くということです。聖書を信じるとは、自分を信じるのではなく、自分の外にあるものに信頼をおこうすることです。狭い自分の中を見るのではなく、広い自分の外を見渡すということです。自分の根底を、もろい自分の中にではなく、自分ではないたしかなところに求めようとすることです。わたしたちが自分の外の声に聴いたり、自分の外を見たり、自分の外に出たりしようとする時、自分の外を参照しようとする時、そこに自分の外のさいたるものとして聖書を見出す、これはキリスト教にとって欠かせないことだと思います。欠かせないことですが、同時に、聖書の信じ方に幅があることも忘れてはならないと思います。

 つぎに、神はただ一人と信じるということはどういうことでしょうか。これは神以外のもの、つまり、偶像を信じない、偶像に寄り頼まないということです。けれども、偶像を他の宗教の神々のことだとして、自分はキリスト教という正しい宗教の正しい神を信じているから大丈夫だとするのは、じつにおろかなことではないでしょうか。

 お金、権力、将来の見通し、家族のきずな、人間関係、自分の判断、健康、心理的安定感、自分の快感・・・・・こうしたものはわたしたちに安心を与えます。適度にお金を求める、人とのあたたかな交わりを適度に求める、適度に心の落ち着きを求める、これは、仕方ないことだけでなく、必要なことでもありましょう。けれども、わたしたちは適度を超えて、過度にこれを求めるようになってしまうことがあります。それを過度に求めるようになれば、わたしたちは人を害し、自分を傷つけます。

 教育費のかかる子どもを含めた家族四人で年収一千万円を求めるのは、それくらいの生活はぜいたくとは言えないという面では適度と言えるでしょう。けれども、これが、それでは安心できなくて、二千万、三千万となるとどうでしょうか。あるいは、共働きでもそこまでの収入を得られる職がなかなかないのに、どうしても一千万円なければ生きていけないとするのこともまた、過度な欲求になっているかも知れません。一千万円あればたしかにかなり安定するが、それがなくても、神さまがが家族の生活と子どもたちの成長を支えてくださると信頼しようとつとめることが大事でしょう。

 携帯のメールで時々親しい人々と言葉を交わしあって、つながりを感じて、生活の潤いにするのは健全ですが、つねに、メールを発信したり受信したりしないと落ち着かないというのであれば、メールによるつながりを自分の根本的な支えとしてしまっている恐れがあります。そういう時は、そのようなものに依存してしまっていることを認めて、こんなものよりも、神さまが支えていてくださることを拠り所にしたいと願えるようになりたいと思います。

 お金、人間関係、携帯メールなどによる支えを全面否定するのではなく、けれども、それに過度に依存しないで、そういったものではわたしたちの人生の根本を支えることはできないことを知り、根本では神さまが支えていてくださることを信頼しようとすることが、ただ一人の神を信じるということだと思います。言い換えますと、神以外のものをわたしたちの根本の支えとしようとして、人を苦しめていないか、自分が苦しんでいないか、自分を振り返りつつ、神さまを根本の支えとしようとすることが、ただ一人の神さまを信じることだと思います。

 最後にイエスを信じるということです。これは、イエスが示していることを通して、つまり、イエスがその誕生、言葉やたとえ話、癒し、祈り、怒り、十字架、復活を通して示している神さまと、わたしたちが出会うということです。(このうち、誕生、十字架と復活はたしかに非常に重要であり、使徒信条などでも強調されていますが、あとの要素においても、そこに示されている神さまに再注目すべきだと思います。)また、方向を逆にすれば、イエスのこれらの事柄を通してご自身をわたしたちに示そうとしている神さまと出会うということです。

 イエス天地創造の前から存在するキリストであるかどうかとか、イエスが神の子でありながら神ご自身であるとはどのような意味なのかとかいうようなことについての詳細な説明がなくても、また、誰かがなしたそのような説明に納得できなくても、それに考えを一致できなくても、もっとゆるやかに、わたしたちがイエスを通して神さまと出会い、神さまがイエスを通してわたしたちと出会ってくださる、その意味で、イエスはわたしたちにとってもっとも大切なお方である、キリストであると信じることで十分なのではないでしょうか。

 三位一体の議論が神学の歴史においてじつに精密になされ、それが神さまを信頼する生き方、つまり、信仰生活にひじょうに役立ったこともあると考えますが、どうじに、もっとゆるやかにとらえることもできると思います。つまり、神さまはわたしたちにいのちを与え、養い育て、支えてくださるお方であり(創造主、御父)、この神さまはイエスを通してわたしたちに働きかけ、イエスはこの神さまの方向をわたしたちに示し(キリスト、御子)、神さまは今、ここにわたしたちとともにいてくださる(御霊)とさえ信じられればよしとするような、ゆるやかな三位一体理解がかえってわたしたちの信仰をゆたかにしてくれるのではないでしょうか。