(6) 愛に伴う苦痛を無視しない

キリスト教批評(6) 愛に伴う苦痛を無視しない

 孤独で誰かを求めているようにみえる人に寄り添おう、寄り添い続けよう、としてきたのに、その人との関係に傷つけられる、もっとはっきりと思いを述べれば、その人に傷つけられることがあります。そう感じることがあります。

 どうして、そんなことが起こるのでしょうか。わたしがその人を「ほんとうに」愛していない、「こころから」愛していないからかも知れません。そのことがその人にもわかっていて、その人もわたしを愛してくれないのかも知れません。

 あるいは、そのせいでか、もしくは、その人自身の性格などによってか、わたしのその人への思いや態度や行為を、その人はただ「消費」しているだけなのかも知れません。寄り添おうとする者がその相手から人格的な位置づけをされず、ただ使用されたり、消費されたりするようなこともじっさいにあるように思います。もっとも、このような使用や消費が起こるのは、両当事者のせいばかりでなく、両者が生きる社会でありがちな人と人との関係を反映しているからかもしれません。

 相手から傷つけられるように感じるばかりでなく、すでに触れたように、自分は「ほんとうに」人を愛せない、「こころから」人に仕えることができない、そのようなことに向いていない、自分はどこまでも自己中心だ、と悩みつづけることもあるでしょう。

 このような傷つきや悩みは、寄り添う時や、じっと耳を傾け続ける時だけでなく、行動としてはもっと積極的に、支援する時、情報や物を提供したり、わかちあったりする時にも、めずらしくないことでしょう。教師、保育士、看護師、医師、カウンセラー、宗教者、ソーシャルワーカー介護士福祉施設で働く人、自宅や病院で家族を介護し続ける人、宗教者など、ケアに携わる人々の中には、このような問題、もっとさまざまな問題に苦しんでいる人も多いと思います。

 キリスト教は聖書の「あなたの隣人を愛しなさい」という言葉を頻繁に取り上げますが、隣人を愛そうとする時に生じるいくつもの困難な問題を、キリスト教信仰や神学の問題としてじっくり考えてきたでしょうか。考えたことをキリスト教の言葉として語ったり、記したりしてきたでしょうか。愛に伴う苦痛についての思いや考えは、個人的な感情表現にとどめられたり、二次的な問題とされ、「あなたの隣人を愛しなさい」と同じ位置にはおかれなかったりしてきたのではないでしょうか。

 たとえば、教会は宿のない人を教会堂に泊めることができるでしょうか。雨や風や雪、病気といった緊急時には喜んで迎えることができるかも知れません。けれども、それが週に二〜三回になったり、生活保護が決定したのに放棄したり、その都度「今日はこういう事情だから泊っていいですか」「ありがとうございました」と言わなくなったり、そんな状態が何カ月も何年も続いて、教会の人がその人との関係を苦しく感じるようになったらどうでしょうか。

 このジレンマを出るために、「また一緒に役所に行って、生活保護をもう一度申請しませんか」と伝えるべきでしょうか。その人が何か深い理由や原因で生活保護を受けたくない場合、このような申し渡しが「教会にはもう泊められません」という意味を持ち、教会に来なくなり、毎晩野宿をして、体をますます悪くしたり、重病にかかったり、あるいは、行路死したりすることになるかも知れない場合はどうしたらよいでしょうか。

 宿がない、体が風雨にさらされる、という人を愛そう、ケアしようとすることによって生じるこの苦痛と、もっと深くキリスト教はかかわるべきではないでしょうか。まずは、この苦痛の存在を認め、ていねいに語ったり、述べたりし、そして、どうすべきかを考え、さらには、答えが出ない、答えがないかも知れないということにも忍耐強くつきあうべきではないでしょうか。

 ヒントが全くないわけではありません。イエスの十字架の苦しみ、人から傷つけられることで人を癒すというイザヤ書53章の人物像が思い出されます。具体案にはつながりませんが、あらたな信仰的な支えとなる聖書の個所です。けれども、この人と関わる中でわたしが傷ついてもこの人が癒されるのならそれで良いとか、わたしが傷つくのはこの人の痛みをともにになっているからだ、という考えを、「あなたの隣人を愛しなさい」という聖句と同じように、ただ標語にして掲げるだけにしたくないと思うのです。

 言い切りの言葉、一度や二度の話し合いで決めたこともって終わりとするのではなく、愛そうとするとどのような困難が起こるのか、その困難とどう取り組むのか、考え続けたいと思います。

「あなたの隣人を愛しなさい」という簡潔な言葉を、わたしたちは、単純な命令ではなく、さまざまなことを含んだ複雑なメッセージ、人生や隣人との関係を深く、粘り強く考えるための促しとして聞きたいと思います。