子どもたちは、勉強はしないよりもした方が良いと思いますが、親に強く命じられて、それに背くと恐ろしい罰が待っているから、仕方なくする、というよりは、入りたい学校があるとか、興味のあることをさらに詳しく学びたいとか、英語なら英語の必要性を痛感してそれを身につけたいとか、自発的な理由があって勉強するほうが、よほど望ましいことでしょう。自発的な理由、あるいは、自発的な目標や望みがあれば、それが自分にとって厳しいことでも、なんとかやっていくことができるのではないでしょうか。
助け合いや奉仕というようなことも、同じように思えます。第二次世界大戦中の日本のように、国が人々に強制した隣組活動とか勤労奉仕・・・これは本当は助け合いではなさそうですが・・・そのような、しなければならないからする奉仕や助け合いよりも、自分から進んでする助け合いや奉仕の方が、よほどすばらしいことでしょう。
聖書によれば、イエスの時代、宗教的な戒めをいくつも挙げて、そのひとつひとつを守らなければならない、自分たちは立派にそれを守っているが、そうでない人は神に救われない罪人だ、というような主張をしていた人びとがいたようです。
しかし、イエスは貧しさや職業のせいでそのような戒めを守れない人々と一緒に食事をするなど、親しく交わりました。すると、イエスは戒めを守らない人間だという非難を浴びました。
けれども、イエスは何百もある細かな規則、してはいけないこと、すべきとのリストよりも、もともとその背景にあった、神を愛せよ、隣人を愛せよ、という根本的な精神を示し、人びとをそこに立ち返らせようとしたのです。
そして、強いられて戒めを守ることよりも、それ以前にすでに神に愛されていることに気付き、それへの感謝として、自発的に、神と隣人を愛することを促したのではないでしょうか。
イエスは、小鳥や花は強迫的に何かをしなくても、そのままで神から生かされていることを示しました。そのことを考えれば、神と隣人を愛せよとのイエスの戒めも、しなければならないノルマと言うよりは、自発性の促し、自発への招きのように思えるのです。