(29)「自分の外に根ざした言葉」

「借り物ではなく、自分の言葉で語ろう」などとよく言います。たしかに、本当にそうかなと考えもせずに、さいきん聞きかじったもっともらしい言葉を鵜呑みにして、ぺらぺらとしゃべってしまうのはどうかなと思います。

 けれども、言葉は聞いたり読んだりして覚えるものです。自分の考えなどというものが最初からあるわけでなく、人の言うことをしっかり聞いたり、本を読んだりして、他者の考えにいくつも触れる中で、少しずつ育ってくるものではないでしょうか。

最初は人の真似とあまり変わらないような言葉だったり、考えだったりしますが、じっくりと、その人のものが築き上げられてくることでしょう。それは、おそらくは、何十年ものプロセスである場合が多いと思います。

考えや言葉は、いくら「自分なりの」と言ってみても、どこかに根ざしていないと、とても軽いものになってしまいます。「自分なりの」ものは、根を持たない植物のようなものです。

では、わたしたちの言葉や考えは、どこに根を持つのでしょうか。それは、繰り返しになりますが、人から聞いたこと、本で読んだこと、また、他人との間で経験したこと、先人が積み重ねていったことなどでしょう。これをまとめて、「他者」と言ってもよいかも知れません。根は自分以外のところに降ろすのです。

聖書を読みますと、イエスはあるとき「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」「わたしの教えが神から出たもの」と言ったとあります。「わたしをお遣わしになった方」とは「神」のことです。

これは、イエスが文字通り神から秘伝として教わったことを人びとに伝えたとか、自分の口から自動的に神の教えが出てくるとかいうよりも、イエスの言葉や考え、思い、祈りが、神に根ざしているということではないでしょうか。

エスは自分を守ったり自分が利益を得たりするために本能のままに自分の口から出る言葉を語ったのではなく、自分を横において、天をあおいで、そして、その眼差しをそのまま、地上の同時代の人びとにも降ろしてきて、そのアーチを根っことして語ったのだと思うのです。イエスは、究極の他者である神と、身近な他者である隣人、まわりの人びとに根ざして、言葉を語ったのではないでしょうか。