(44)「あなたを愛しています。あなたはわたしの喜びです」

 大晦日の晩に嫌な夢を見ました。就職先を探しているのですが、その斡旋をお願いした人びとから、「おまえはあの仕事のときはあんな失敗をやらかした」「おまえはあそこの職場ではあんなひどいことをやらかした」と、集中砲火を浴びるのです。とても苦しい気持ちに追い込まれましたが、そこで目が覚めました。けれども、これは現実ではない、夢なのだ、と落ち着くまで、すこし時間がかかりました。

 元日は、親しい人びととあいさつを交わしあったり、白玉ぜんざいをいただいたり、テレビを観、おしゃべりをしながら、おいしいものをいただいたりして、あるいは、直接会えない人々とは、SNSで「いいね」や「超いいね」を交換し合ったりしているうちに、前夜の悪夢はフェードアウトしていきました。

 わたしたちは、人から責められるだけでは、生きていけません。人から、誉められたり、認められたりすることが必要です。立派なことをして賞賛されるということではありません。そうね、そうだね、うれしいね、悲しいねと気持ちをわかってもらうこと、また、気持ちが和らげられるような、ちょっとした言葉をいただくことが大事だと思います。

 自分はだめだなと思っている人、自己肯定感が低い人は、少なくないことでしょう。それゆえに、少しは認められたいなあ、ほめられたいなあ、いや、わかってほしいなあと願っている人、承認欲求を秘めている人も、たくさんいることでしょう。

 聖書によれば、イエスが洗礼を受けたとき、天が開いた、ということです。雲に裂け目ができ、そこから、陽光がさっと差し込むようなイメージでしょうか。さらには、神の霊が、まるで鳩のように舞い降りてきたと言います。獲物を狙って急降下して来てまた急上昇する猛禽類のようにではなく、空軍機のタッチアンドゴーのようにでもなく、ブレーキをかけながら降りてきて、最後は、何も壊さず、誰も傷つけないように、ふんわりとそっと静かに、着地するのです。

 そして、雲の合間から声が聞こえます。「あなたはわたしの愛する子。あなたはわたしの喜びだ」。これは、神がイエスに向けた声ですが、お寺や教会の鐘の音のように、空のドームに響くのであれば、その下にいるすべての人に届くのではないでしょうか。