(14) 「あの人のための自分などと言わず」

 吉田拓郎さんの名曲「人生を語らず」は、松任谷正隆さん演奏という印象的なキーボードに始まりますが、「あの人のための自分などと言わず、あの人のために去りゆくことだ」という歌詞も忘れられません。

 はたちをいくらか過ぎたころ、大学の同級生を好きになりました。花よりもやさしく、星よりもうつくしい人でした。たとえふりむいてくれなくても生涯愛し続けよう、と書きました。その人とは結ばれず、三十年以上が経ち、Facebookで探しても見つからず、消息はわかりません。

 どうしているかなとふと思うことくらいはあっても、生涯愛し続けることなどはありませんでした。何か月か心のすべてを占めていたが、やがて薄れてしまった、と言ったところです。「生涯愛し続けよう」というのは嘘だったというよりも、「いまはあなたのことで頭がいっぱいだ。あなたの声が聞きたい。そばにいたい。話をしたくてたまらない」という思いを、そのように誤変換してしまったのです。

 人を愛する、大事にすると言いつつ、じつは、それは、自分の欲求を満たしたいことの誤訳に過ぎないことがあります。信号が青に変わりました。白い杖をつかつか突きながら、横断歩道を渡る人がいます。もう少しで無事渡り終えます。そのとき、誰かがその人に駆け寄り、手をとって、「こっちこっち」と引っ張ろうとしました。ところが、闖入者にその人は転んでしまいました。誰かの支えを求めるときは、立ち止まって、白い杖を上げるのです。愛するとは、自分が助けたいから助けるのではなく、その人が求めたら応じることではないでしょうか。

 ペトロはイエスの一番弟子でした。イエスは自分が殺害されることを予告しますが、ペトロは「あなたのためなら命を捨てます」と言いました。けれども、それはペトロの欲望に過ぎませんでした。そう言って、イエスにも自分にも良い恰好をしたかったのです。

 この直後に、イエスは捕まり、ペトロも「おまえもイエスの仲間だろう」と問われますが、「こんな人は知らない」と三度念を押します。ペトロはイエスを愛していたのではなく、イエスと自分を欲していただけなのです。

 イエスは十字架で死刑にされ、墓に埋葬されます。しかし、聖書は、イエスが復活して弟子たちのところに現れたと物語っています。イエスはペトロに尋ねます。「わたしを愛しているか」「はい」「わたしの羊を飼いなさい」。この簡潔な会話が三度繰り返されます。

 愛するとは、自分を飼うことではなく、相手が大事にしている羊を飼うことだったのです。愛するとは、自分の思いを大事にすることではなく、相手の思いを大切にすることだったのです。