34 「人間共通の課題に取り組んだガンジーやキングは個別の宗教に根ざしていた」

「信じない人のための<宗教>講座」(中村圭志)

 タイトルを見て、ひとつは、聴き手のほとんどがキリスト者でない高校の聖書の授業や、キリスト教会にあまり縁のない人びとに向けた教会のメッセージ発信の参考にならないかと、もうひとつは、世界の諸宗教について何らかの知識を手軽に得られるのではないかと思い、読んでみました。

 結果的にはどちらの思惑もはずれてしまいましたが、参考になった点もいくつもありました。

 たとえば、キリスト教の三位一体を説明するのに、コカコーラの缶を持ち出し、これを机の上に立てたとして、上面が父なる神、底面が子なる神、側面が聖霊なる神、コーラの缶全体が神である、としています。なるほど、天には御父、地には御子、天から地上に降りてくる聖霊というたとえは、非常にうまい感じがします。ただし、キリスト者からは、それでは、父、子、聖霊は缶の一部、つまり、神の一部ということになってしまわないか、という懸念を持たれるかも知れません。

 それから、この本は、キリスト教イスラム教、仏教、儒教道教ヒンドゥー教、日本の「宗教」などを個別にも説明していますが、この「宗教」という概念が絶対的なものではないことも訴えています。

 以前は宗教と宗教でないものの区別はあまり明確でなかったのに、近代化・文明化にともない、ビジネス・政治・経済などの日常世界と、個人の魂の奥底に関わる「宗教」とが図式的に分けられるようになったということです。宗教(という概念)は近代のヨーロッパで生まれたものであり、人間がその領域を他とは独立したものとして意識し始めたのもそれからのことだというのです。

 「もろもろの伝統のなかから『宗教』というカテゴリーあるいはアイデンティティーをデジタルに切り出したのは、近代西洋のロジックだったのではないか? このロジックが、それを個人の内面的精神世界であるというふうに規定したのではないか? そのさい、伝統のもつ身体的・共同体的な側面が骨抜きにされたのではないか? そしてついに、それは表社会に出現することを禁じられ、人びとは社会の運営を完全に資本主義的福祉国家・管理国家・国民国家の精緻な官僚的システムにゆだねるように躾けられたのではないか? つまり伝統は『宗教』にされ、『精神世界』にされたあげくに『ヤクザ』なものとして非合法化されたのではないか?」(p.231)。

 これは諸刃の剣です。富の偏在が極端で、それを軍事政権が支えるラテンアメリカ諸国で生まれた「解放の神学」は、聖書やキリスト教の救いは人間の内面的精神的にとどまらず、社会的、政治的、文化的、身体的な側面を含む全人格的なものであることを明らかにし、抑圧国家に否を唱えぶつけましたが、靖国神社天皇制にまつわる諸行事は反対に国家の暴力的な面に加担していると思われます。

 宗教の身体的・共同体的側面が思い起こされる時、それが権力者に利用され、人びとを苦しめることに利用されるのか、それとも、権力者の横暴に抵抗し、人びとの苦しみをなんとかしたいという志に活用されるのかが、問題でありましょう。
 
 著者はまた、宗教間の対立も近代国家の形成に伴うものだと説きます。スンナ派シーア派イスラム教徒とユダヤ教徒、インドでのイスラム教徒とヒンドゥー教の対立は、西洋的な近代化により、社会が組織化され、自分はどこの社会組織に所属するのかというアイデンティティーの問題に敏感になり、それが政治化した、非常に今日的な問題である、とします。「今日の宗教間対立の多くは中世的な伝統に由来するものというよりは、植民地統治による撹乱、そして資本主義的競争のもとにある近代国家に由来するものだと言うべきです」(p.190)。

 さいごにもう一点、参考になったことを挙げます。現代社会には、税金、年金、高齢者介護、教育、犯罪、環境など、さまざまな「公共の問題」があるけれども、これらに取り組むための公共的討論がうまくいかない理由を、筆者は三つ挙げています。

 ひとつは、「想像力の限界」です。人びとは自分の関心のあること以外には興味を持ちません。税金問題も、少し考えれば、誰の身にもかかわることであるとわかるはずなのに、ピンとこない人にはピンと来ません。放射能汚染でさえも同じことです。どんなに大切なことでも、人は自分がそれに関心を持つモードに入っていなければ、それがどんな問題であるか想像することにも労力を惜しむのです。

 にばんめは、「利害をめぐる限界」です。「先端技術を扱う科学者が、その技術の可能性をぎりぎり追求しながら、かつその技術の開発は倫理的に問題ではないか、と逆方向のことを考えるのは、かなり難しいことでしょう」「戦地に派遣される兵隊さんが、この軍事作戦は間違っているのではないか、と考えることはできません」(p.218-219)。

 金銭や地位、波風の立たない人づきあいを含む利害関係が、思考の筋道に入り込み、いや、主導し、自分の利益になる結論を生みだし、それにしがみつかせるのです。

 さんばんめは、「論証の限界」です。「社会的次元の議論というのは、自然科学的な意味で論証といえるような要素と、相手の顔色をうかがっての駆け引き、とりあえずの約束、フィクション、あるいは勘違いや希望的観測といった要素が綱引きをしているのが常態であると言えるのかもしれません」「右派であれ、左派であれ、永遠に議論しているわけにはいかないので、金、利益誘導、暴力、世論操作などを通じて、さっさと結論を構築してしまうということを頻繁に行っています」(p.221)。日本の国会を見れば良くわかります。

 さて、著者は、こうした公共問題についての議論の限界を乗り越えるものとして、ときおり、偉大な人物があらわれて、「宗教的な次元のもの」を語り始めることがあると言います。ガンジーキング牧師がその例です。

 そして、彼らのヴィジョンは宗教的であるけれども、一個の宗教の独占物ではない普遍的なものであると言うのです。

 では、個別の宗教を越えた普遍的なものがそれとして独立してあるかというと、ガンジーヒンドゥー教的伝統に深く根ざしており、キングはプロテスタントの牧師です。それを抜きにしては、非暴力のヴィジョンは出て来なかったのです。

 日本で言えば、田中正造が挙げられるのでしょうか。洗礼は受けていなかったけれども、死亡時の全財産であるズタ袋にマタイ伝が入っていたと知られています。

 彼が、神を信じていたか、悔い改めていたか、救われたか、救われたとしたら正義を貫いたからか、これはまた別のお話しといたしましょう。