2026年9月13日 使信「させておく」 マルコ14:1-9

2026年9月13日 「させておく」マルコ14:1-9

 

おはようございます。

今日のお話には、「させておく」という題をつけましたが、これは、無関心故に勝手にさせておく、手に負えないから放置しておく、ということではありません。

 

むしろ、イエスさまは、今日の聖書に出てくる女の人のなしたことを、とてもあたたかな目で見守られ、とてもあたたかな心で受け入れられた、という意味を込めています。

イエスさまは、今日の聖書の女の人を見て、「するままにさせておきなさい」と言われました。これは、無関心や突き放す意味で、勝手にさせておけ、と言われたのではなく、むしろ、人の目から見たら、無駄に思えるようなことでも、イエスさまはあたたかく理解してくださる、という意味を、わたしは汲み取りました。

今日の聖書をさっそく振り返ってみましょう。

マルコによる福音書14:1 さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。14:2 彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。


「過越祭と除酵祭の二日前」とありますが、これはどういうことでしょうか。イエスさまが十字架につけられたのは、金曜日です。すると、その前夜の最後の晩餐は木曜日、ということになります。そして、この木曜日の最後の晩餐は、過越祭と除酵祭の食事にあたります。

その二日前とありますから、木曜日の二日前で、火曜日になるでしょうか。つまり、今日の聖書の個所は、イエスさまが十字架につけられる週の火曜日の出来事と考えることができるでしょう。

ポイントは、火曜日とか木曜日とか金曜日とかいうことよりも、今日の聖書のお話は、イエスさまが十字架につけられ、殺される数日前の出来事、つまり、イエスさまの死がもうそこまで迫っていた時の出来事だということです。

祭司長や律法学者たちは、どうしてイエスさまを殺そうとしたのでしょうか。それは、彼らが絶対正しいと信じていたことを、イエスさまの教えが脅かしたからです。

彼らは自分たちの宗教や信仰の枠に閉じこもって、それが正しいと言い張っていたのだと思います。けれども、イエスさまは、神さまの愛は、それよりもずっと広く、ずっと深いものである、と知っておられ、そのことを語られました。イエスさまが広く深いことを語ると、祭司長や律法学者の狭さや浅さが露呈してしまう、それが、祭司長たちや律法学者の敵意を招いたのではないでしょうか。

わたしは、多様性、いろいろな考え方があることが大事だと考え、たとえば、信仰においても、自分と違うタイプの信仰もそれはそれで尊重したいと思っています。ある人がわたしと違っても構わないのです。同じでなくていいのです。その人の信仰をできるだけ尊重したいと思います。

ところが、その人がわたしに、「おまえは間違っている。おれは(つまり、その人は)正しい」と強く主張されると、そのような主張は受け入れるのは、とても難しく感じます。

わたしもあなたも考えはそれぞれ。それぞれの考えを尊重しあう、ということなら良いのですが、「おれだけが正しい、おまえは間違っている」と言われると、それは受け入れがたいのです。

つまり、わたしはいろいろな意見はできるだけ尊重したいと思っていますが、「いろいろな意見など尊重できない」という意見だけは、尊重できません。だから、じつは、わたしも多様性を完全には尊重してはいないのでしょう。


わたしは「おれは絶対正しい」と主張する人は相当に苦手ですが、わたし自身、「自分だけが正しいと言わないわたしはその点では、絶対正しい」と思っているのですから、人間世界や人間の心はとても難しいですね。

信仰の主張には、このようにつねに、不寛容な信仰だけに不寛容な感情が伴うのではなく、寛容を目指す信仰にも、不寛容の感情が伴ってしまうのではないでしょうか。

祭司長や律法学者たちは不寛容な信仰ゆえにイエスの主張に殺意を抱きました。しかし、わたしたちがもし寛容な信仰を持っているつもりでも、そこには不寛容や敵意が潜んでいることは否定できないでしょう。

話を今日の聖書に戻しますと、祭司長や律法学者たちは、イエスさまをいつ捕らえるかについては、今日の聖書の個所によれば、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っておきながら、じつは、過越の祭りの間に、イエスさまは捕らえられ、十字架で殺されてしまうことになります。

しかし、話はその数日前の火曜日に戻ります。

14:3 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。

この女性はどうしてこのようなことをしたのでしょうか。

イエスさまはもう少し先で次のように言っておられます。

14:8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。

「埋葬の準備」とあります。つまり、この女の人は、イエスさまがまもなく死んでしまうことを知っていたのかもしれません。あるいは、予感していたのかもしれません。

それで、いてもたってもいられなくなったのではないでしょうか。

イエスさまが殺されてしまう。祭司長や律法学者たちや、彼らの指図を受けた人びとによって、イエスさまが捕らえられ、殺されてしまう。どうしよう。わたしに何ができるだろう、と彼女は考えたのかもしれません。

しかし、イエスさまを逮捕するのは、ユダヤの宗教権力者たちの集団であり、イエスさまの十字架刑を許可するのは、ローマ帝国から派遣された総督ポンテオ・ピラトであり、そのような大きな相手には、彼女は何もできないと絶望してしまったのではないでしょうか。

そのなかで、彼女は、せめて、イエスさまに香りのよい香油を注いで差し上げたい、イエスさまの死を防ぐことができないのなら、せめて埋葬の準備をしたい、と考えたのではないでしょうか。

けれども、その場にいた人たちは、この女性の行為を理解しませんでした。

14:4 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。

14:5 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。


彼女の心を込めた行為を、周りの人は、それは無駄遣いだ、と言うのです。わたしは、この無駄という言葉には、お金の無駄遣いを戒めるだけでなくて、「そんなことをしても無駄だ」「そんなことをしても意味がない」という響きを感じます。

周りの人たちは正論を吐きます。この香油は売れば300万円にもなるのだから、売って、そのお金を貧しい人びとに利用してもらった方が、よほどよい、と彼らは言うのです。

けれども、これは、その場で思いついただけの理由、とってつけた理由でしょう。この人びとは、ふだんから、貧しい人びとのことを案じ続けていたようには、わたしには思えません。

むしろ、突如現れたこの女性、イエスさまの頭に、壺いっぱいのナルドの香油をかける、という異常な行動をしたこの女性への嫌悪感を正当化するために、この女の人を責め立てるために、貧しい人に寄付をした方がよかったなどと難癖をつけたのではないでしょうか。

ちなみに、ナルドの香油は石膏の壺に入っていて、彼女はそれを壊して、イエスさまの頭に注いだ、と言います。

壺を壊すと香油は床に流れてしまうような気もしますが、ポイントはそこではなく、この女性は、香油を惜しみなく、イエスさまに注いだ、できる限りのことをした、ということではないでしょうか。

わたしたちも、ときどき、自分としては精いっぱいのことをしたつもりになることがあります。しかし、そんなことをしても無駄だ、という人もいるような気がします。わたしも、また、そういう冷ややかな目を人に向けてきてしまったと、反省しています。

わたし自身も、そういう冷ややかな視線を感じたこともあるかもしれません。すくなくとも、自分としては、精一杯やってきたことが、ほとんど顧みられなかった、まったく顧みられなかった、と感じてしまうことはあります。

まぶね教会のメーリングリストで、毎朝、下手な短歌をお送りしています。

短歌というより交通標語というか、ただの57577です。あれを始めたきっかけは、俵万智さんの本や歌集を読んだこともありますが、聖書の福音を、簡潔かつ分かりやすく、できれば、印象深く、皆さんと分かち合うことができないかな、と思った次第です。

簡潔という点は文字が30文字と少しですから簡潔ですが、分りやすいか、印象深いか、というと、そうでもなさそうです。

ここ何年間か、毎朝3時に起きて、短い聖書のメッセージをやっつけ仕事で書いて、皆さんにメールで送るようになって数年、そして、それを57577で締めくくるようになって200日になります。

こんなことをして何の意味があるのだろう、無駄ではないか、自己満足に過ぎないのではないか、と思うこともあります。じじつ、自己満足ですね。

けれども、毎朝読んでいます、楽しみにしています、ということを言ってくださる方が、ときおりおられます。

自分では、無駄ではないか、意味がないのではないか、と思われることも、じつは、あたたかく見てくださる方々がおられます。これは、とてもありがたいことです。

神さまのまなざし、イエスさまのまなざしも、このようにあたたかい、とわたしは思います。

戦争が終わりますように、世界から戦争がなくなりますように、と祈り続けても、そんなことは無駄だ、げんに、何千年も、世界から戦争はなくならない、という声もあるでしょう。

けれども、神さまとイエスさまは、この祈りを聞いていてくださるのではないでしょうか。あなたの祈りは無駄ではない、あなたの祈りをわたしは忘れない、とおっしゃってくださるのではないでしょうか。

異常気象、大水害、地震が続いています。それがなくなりますように、その被害からすべての人をお守りください、とわたしたちは祈り続けています。地球の自然現象だけ見れば、そのような祈りは無駄に思えるかもしれません。

けれども、神さまとイエスさまは、わたしたちの祈りを聞き続けていてくださるのではないでしょうか。

わたしたちの人生はどうでしょうか。わたしたちは、人生において、名を成しましたか。成功しましたか。いつも幸せでしたか。自分で満足できていますか。

 

わたしの人生にはいったいどんな意味があったのか、意味などない、こんな小さなわたしの、こんなちっぽけな人生など、無駄だった、と思うことはないでしょうか。

けれども、神さまとイエスさまは、あなたが生きてきたことは無駄だった、とは、けっしておっしゃいません。

むしろ、こう言ってくださいます。

14:9 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。

これはどういう意味でしょうか。これは、有名な人の偉業が語り伝えられる、という意味ではないでしょう。

そうではなくて、わたしは、このように理解します。わたしたちのしたこと、生きてきたことが、無駄に思えたり、思われたり、ちっぽけに思えたり、思われたり、無意味に思えたり、無意味に思われたりしても、神さまとイエスさまのお心の中では、わたしたちが生きてきたことはとても尊いことだ、大切なことだ、としてくださる、それこそが、神さまからの良い知らせ、福音なのだ、と。

神さまは、皆さんの人生と皆さんの存在を、無駄どころか、とても尊いもの、大事なものとしてくださいます。これが、神さまからの良い知らせ、福音なのです。

祈り。神さま、わたしたちは、人のしたことを無駄だと決めつけたり、自分のしたことがそう思われたり、自分で思ったりすることがあります。けれども、神さま、あなたは、わたしたちのなすことを無駄だとは言わず、むしろ、大切なこととして心においてくださいます。神さまのお心の記念ノートに刻んでくださいます。心から感謝いたします。イエスさまのお名前によってお祈りいたします。