(10) 「誰かを守るために、我が身が裂かれるようなことを引き受ける」

 虫歯を治すには、どんなに怖くても、歯医者に行かなくてはなりません。病気を治したり防いだりするためには、どんなに痛そうでも、注射を受けなければならないことがあります。学校に入学したり、仕事に就いたりするためには、どんなに緊張しても、試験を受けなければなりません。

 野球賭博をした若い選手が、今にも泣き崩れそうな非常に強張った面持ちで、たくさんのマイクとカメラの前に立たされ、つっかえつっかえしながら自分の犯したことを告白し、反省の念を述べていました。さいごに振り絞った勇気と覚悟や家族と恩師の気持ちによって、できればやりたくない、逃げてしまいたいという衝動と震える体と声をなんとか押さえながら、その役割を果たしました。二十代半ばの青年としては、とても厳しい経験だったことでしょう。

 自分たちこそが正義という旗印を掲げ、いわば、自分に迫り、非難し、攻撃する相手の欲望のままに、青年は我が身を差し出したのです。十数分間逃げも隠れも抵抗もせず、なすがままになされることを、我が身に引き受けたのです。

 なんとかそれができたのは、自分がなしてしまったことの重大さ、それが自分の人生に及ぼす大きな結果、それにくわえ、それでも支えようとする親や師やつれあいのかたじけなさを痛感したからでしょう。その人たちと自分の人生の残された可能性を守ろうとしたからでしょう。

 苦しいことはできるだけ避けたいものですが、人生には、それを引き受けなければならないとき、引き受ける時があります。組織に強いられたり、洗脳されたりして、苦しみやときには死に甘んじさせられる。そんなことはけっしてあってはなりません。それをゆるしてはなりません。しかし、何かや誰かを守ったり、生かしたりするために、純粋に自分の情と意で、とてもつらいことを身に引き受けることはありうるのです。

 映画「アルマゲドン」では、娘とその夫と人類と地球を守るために、父はいのちを捨てます。ミュージカル「夢から醒めた夢」では、死者のマコは、少しの間自分と入れ替わってくれた生者のピコを生者に戻し、また、ピコのお母さんを悲しませないために、「せっかくもどってきてくれたのだから、行かないで、このままそばにいて」と縋りつく自分の母を振り切って、死者の世界に戻ります。

 こうした話を語る人と引用する人の意図は、組織のために犠牲となることを強いることにあるのでしょうか。それとも、自らの情熱と意志で、他者のために自分を捧げることが至上の愛であることを語らずにはいられないのでしょうか。つぎの聖書の話はどうなのでしょうか。

 聖書によりますと、イエスは、自分を裏切り、暴力によって捕まえ、虐げようとする者どもに抵抗しませんでした。ただ、自分は一歩前に出て、一緒にいた人びとには手を出さないように言いました。抵抗しようとする仲間には、「剣をさやに納めよ。この苦杯は飲み干さなければならない」とたしなめました。イエスは「自分は誰一人失わないために」こうするのだと言いました。聖書を読む人の中には、イエスは自分を救うすべての人のためにいのちをささげてくれたのだ、と信じる人びとがいます。