223 「世界の現状を伝え、問う演劇の元祖」

三文オペラ」(ブレヒト作、岩淵達治訳、2006年、岩波文庫)

 ぼくは、プロの演劇経験のある日系ペルー人の友人に誘われて、半時間ほどの劇の共同創作に加わったり、舞台に立ったりしたことがあります。

 それから、そのずっと前から、井上ひさしさんの芝居の脚本はほとんど読んでいたし、お金があるときは、舞台を観に行きもしていました。

 ふたりとも、演劇を通して、観客に世界の何かを問題提起しようとするタイプの演劇人であり、そのような演劇を提唱したブレヒトが、彼らの資源の一つであることは必然であり、ぼくが、ブレヒトに関心を持つのも、自然の流れだけれども、じつは、ぼくにとってこれが、初めてのブレヒトでした。

 けれども、三文オペラを読んで、ペルー人の友人や井上さんの芝居への理解が深まったように思っています。

 「世界は貧しく、人間は性悪。誰だってこの世を天国にしたいだろ? だが、この世のしくみが、それを許すかね?」(p.92)。

 「私は、没落しつつある階級の、没落しつつある代表者・・・中小企業のケチな金庫をこじあけるような仕事をしているうちに、大企業に呑まれてしまう・・・銀行強盗に使う合鍵など、銀行の株券に比べれば何でありましょう。銀行強盗など、銀行設立に比べれば子ども騙しの仕事に過ぎません」(p.205)。

 「キリスト教徒の世界では、どこでも人間は決してお目こぼしはしてもらえない」(p.211)。

 「今日お目にかけたのがその貧乏人のつらい生活なんだ。現実には貧乏人の末路ってのはまさにひどいもんだからね。国王の馬上の使者なんてのは滅多に来ないし」(p.213)。

 これらのセリフが、現実社会の矛盾を暴いているのは、言うまでもありません。

 巻末には、ブレヒトの「覚書」が添えられています。そこには、さらにいくつかの演劇論がうかがわれます。たとえば、観客と俳優の間に交流が必要だとありますが、上に引用した最後のセリフには、それがうかがわれます。また、俳優は役になり切るより、自分の表現する人物について物語るべきだと言われています。さらには、「俳優は歌の情感的な内容をあまり高めてはいけない(自分自身がすでに賞味してしまった食べ物を他人にだしたりしていいだろうか?)」(p.226)とあります。井上ひさしさんや現代の劇作家がこれを百パーセント採用しているとは思えませんが、無視すべき批判でもないでしょう。自分だけの世界に入り切っている者からは伝わってこないものがあるように思います。相手をおいてきぼりにしてはならないのです。

 「劇の経過は直線的にではなく、曲線を描いて進行し、ときには飛躍して進行することもなければならない」(p.228)。これは、三文オペラ自体が、もっともシンプルな形ではありますが、この模範となっていると思います。初期の井上芝居のいくつかには、存分に用いられていた考えでありましょう。

 最後の訳者の解説に、「芸術家の天才的個性という古い価値観に反逆した彼は、何人かの協力者との集団創作という方法を創始し」(p.252)というくだりにいたり、ペルー人の友人が、ぼくたちの演劇にはあらかじめの脚本はない、皆で作りあげていくのだ、と言いながら、ひとりひとりがあるテーマについて思い描いたことがらひとつひとつを、演劇の一幕とし、それをつなぎあわせていく手法の意味を納得しました。

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