90 「3・11直後の人々の心と、海に襲われた町の風景、そして、かすかな展望を言葉で残す試み」

「双頭の船」(池澤夏樹、新潮社、2013年)
 
 池澤夏樹は被災者ではありません。けれども、3月11日直後から、被災地に入り、見つめ、聴き、感じ、考え、よく書いてきた作家です。三月十一日文学とでも呼ばれるものが、やがて、東北の民中心に担われるようになっていくためのパートナーの一人だと思います。

 被災地に足を運んだことのある読者は、池澤が単語と文と段落で描き出した風景、海がすべてをなぎ倒しながら襲いかかりすべてを引き剥がすかのように戻って行ったあとの東北の町や、そこに住んでいた人々の口にのぼる痛みや苦しみの言葉に、たしかにそうだったと深くうなずき、さらには、さすがはこの作家だと感嘆し、自分の経験や省察の重要な補足とすることでしょう。

 行ったことのない人、事情でなかなか機会がない人は、この小説を通して、テレビ番組や週刊誌、新聞記事以上に、被災地の情景をリアルに感じ、また、被災者の多彩な心情に思いをはせることができることでしょう。

 被災者を支援しようとする者同士、その者たちと被災者たちの交わりや葛藤。避難所や仮設住宅の住民の気持ち、住民間の喜怒哀楽。

 これから町はどのように作られていくのか。物語では、フェリーボートが島となり、島が陸に乗り上げて、さらには丘にいたるまで進んで、半島となります。これは何の隠喩なのでしょうか。

 亡くなった人のことはどうなのでしょうか。かつての島が丘とつながったあたりに墓地ができ、人々は足繁く訪れます。「ここでは生きている人と亡くなった人との距離が他のどの土地よりも近い」。

 けれども、たとえ近くても一定の距離ができるまでには、時間と助けが必要でした。亡くなった家族や住民が家や街角にいる時期があったのです。それが、盆踊りに現れたフォルクローレのグループが生きている人と亡くなった人の心をわしづかみにし、「コンドルは飛んで行く」で陶酔させ、最後に「泣きながら Llorando se Fue」(ランバダ)を奏でます。しかし、これは、酔わせるのではなく、「心を決めさせる音楽」であったと池澤は語ります。

 演奏者が海に飛び降り、水上を沖へと歩きます。盆踊りの場にいたたくさんの人々がそれに続きます。そこには子どもたちも交じっています。残った人々は泣きながら、それぞれ親しい人々の名前を呼びます。読者の頬にも筋ができます。

 この物語には熊や狼が出てきます。これにはどんな意味があるのでしょうか。野生の動物なら自分でできることなのに、ペットとして飼われた動物は、人間と同じで、死んでも自分で旅立つことができない、だから、少しだけ誰かが手伝う必要がある、と語られる場面が出てきます。

 しかし、熊の意味は、旅立ちの助けの他にもうひとつあるのです。ベアマン(熊男)と呼ばれる人物が、「墓所、食べ物、土、供養、動物、地面」に、人々の意識を引き付けようとします。生き続けていく人にも、熊が、熊の生き方が必要なのです。

 「絆」「がんばろう日本」というスローガンではなく、熊、土、墓所こそが、生きる者と亡くなった者をともに生かし続け、つなぎあわせるものなのではないでしょうか。だからこそ、船は島となり、島は半島となり、大地に食い込んだのではないでしょうか。

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