91 「神と隣人、社会と共同体、そして自分の前に立つための霊性」

「改訳新版 共に生きる生活」(ディートリヒ・ボンヘッファー著、森野善右衛門訳、新教出版社、2004年)
 
 霊性と言っても、オカルトや憑依、超常現象のことではありません。神の前に立ち、その姿勢を基として、隣人と社会、また、自分の前にも立つありよう、とでも言いましょうか。いや、自分のありようではなく、神からいただいたものでありかつ、自分の中にあり、自分を促してくれるものだと思います。

 この本はそのような神から与えられた霊性についての本ですが、この霊性の向きを変えて、人間の神や隣人に対する姿勢の本であると言えないことはありません。

 ボンヘッファーは、人間はどこまでも罪人であること、人間はどこまでも自分本位であり、神や隣人に思いを向けるときでさえエゴイズムが見え隠れしていること、神はそれにもかかわらずこの罪人を無条件で、つまりは、人間側の手柄に無関係に、ご自分の恵みによってのみお救いになること、この二点において、徹底しています。この徹底は読者には非常に大きな慰めです。このカスのようなわたしも、神さまはお赦しくださるのだ!と。

 この罪と恵みの「原理主義」とでもいうべき霊性に基づいて、この本は、神を筆頭とする他者(神、隣人、共同体)とわたしたちの関係を説き明かしています。

 この「原理主義」の源流がマルチン・ルターにあることは言うまでもありません。ボンヘッファーはドイツのルター派牧師であったのみならず、ルター神学、ルターの信仰の最良質の部分をもっとも的確に身に着けているといえるでしょう。

 本著は、ルターの神学を学んだことのある人を、なつかしさと再確認の喜びで満たしてくれるに違いありません。

 バルトの読者にも同じことが起こるでしょう。バルトが「ローマ書」で繰り返し述べた、神と人間の絶対的な隔絶が本著でも貫かれています。バルトは宗教さえ人間的なものとし、宗教ではなく、神が救うことを強調します。

 ボンヘッファーは、敬虔さを含む、礼拝における感情的な事柄や、人間の交わりの中で生じる楽しさを、神の恵みから、また、神における人間の交わりから、峻別します。

 そこには、ヒットラーやナチによる集団陶酔への批判が強くあると思いますが、神の恵みと人間的な感情を取り違えてはならないというメッセージも明白です。

 人間的な感情が否定されるのではありません。しかし、人と人とが共に生きる生活の基となるものは、感情の交流ではなく、どうしようもない罪びとであるにも関わらず、神がわたしたちへの愛ゆえに無条件に救ってくださったという恵みなのです。

 この本は、このような神の恵みに基づいて、人と人が共に生きる生活を描いています。そこには、人が人と共に生きることや、人が神に仕えて生きることを阻む者たちへの断固とした否も含まれています。