87 「ことばをりんかくからときはなちにじませる者は、いっせいきのはんぶんまえに」

abさんご」(黒田夏子文藝春秋、2013年)

 文字を読んでいるのか、それとも、ゆらゆらと伸び縮みするくらげの群れのやや濁った水槽を眺めているのか、わからなくなってしまう。墨の乾かない山水画、母の胎での浮遊、あの世、蛍の点滅・・・そんな感じです。

 ひらがながたようされぶんせつとぶんせつがわかりにくい。しかし、そこから意味深な誤読や多重性が生まれます。たとえば、「傘を持って行かなかったので、ぼくは夕立でびしょ濡れになった」とではなく、下手な模倣をしてみるなら、「ゆうだちでびしょぬれになった者は、でがけの天気予報にもかかわらず、いやただめんどうであったせいか、かさをもっていかなかったことをたいしてこうかいしているわけでもなかった」というような書き方がされています。

 これらは、ひとつは、文節的な知を混沌におしもどそうとしているのでしょうか。一緒に収められている半世紀前の小品、「タミエの花」で、タミエは花に自由に名前をつけることを楽しんでおり、「みんなに知られ名づけられ、絵だの写真だのにうつされ、また、男の頭の上に浮いている複雑な地図の中で、アヤメ科だのラン科だのと定められるなどとは到底許しがたい」(三二頁)と思うのです。「単に感覚的博識ともいうべき己れの世界に比べて、男の世界には地図があり帳面があり、みんなとの協定みんなの支持があるという堅固を確実を安定を、ひしひしと感じさせられて来たタミエ」(三三頁)。「abさんご」はまさに「感覚的博識ともいうべき己れの世界」ではないでしょうか。

 この世界の風景や出来事は簡単に分節化できるものではありません。「その花の形は、確かにタミエには見えながら、つきつめられれば総て朧げに眇(びょう)として、花びらの数も斑の色も、こうとはっきり言葉にならない」(三四頁)と作者は五十年前に書いています。

 なんかい、ふめいりょう、にじみ。作者が言葉を滲ませる、そのわけは、同じくこの本に収められている十ページ足らずの五十年前の作品、「虹」にあるのかも知れないと思いました。最後の場面にはおどろきました。そこには、タミエが虹を見た記憶を持たないわけがあります。

 もっとも、いっせいきのはんぶんがすぎ、「abさんご」の最終段落を読むと、にじみは、暗い記憶の隠ぺいではなくなり、一つの意味や事柄にとらわれず、あらゆるありようをかさねあわせる達観となったのだと思いました。