(66)「悪事に育ちかねない悪意が、わたしたちの心にあることに気付かされる」

 国会議員が運転中の秘書の頭を叩いたり、身体特徴への侮辱など罵詈雑言を浴びせたりしたことが問題になっています。一度きりのことではなく、秘書を自分より下位の人間とみなした上での暴言が常習化していたようです。

 わたしたちはどうでしょうか。日常的にそのような悪態をついている人はそんなにいないとは思いますが、怒りが沸点に達してしまったときは、誹謗中傷の言葉を乱暴に吐いたり、相手の容姿や能力、履歴に言及したり、相手を見下す言葉を口にしたりすることがないでしょうか。この国会議員と同じように、誰かのことを自分より劣った人間と見ていないでしょうか。

 あるスポーツ団体の常務理事がパワハラとセクハラを認め、辞任しました。恋愛感情を満たすために女性部下を食事などに執拗に誘ったり、職務に関係のないメールを頻繁に送りつけたりしていたそうです。

 わたしたちはどうでしょうか。好感が持てる人とのコミュニケーションを求めて、理由をつけては、あるいは、さりげなさを装って、メールを出したり、SNSでコメントをつけたりしていないでしょうか。その場にいさせたいからと、食事に呼び出したりしていないでしょうか。そこには、セクハラの温床がないでしょうか。

 新約聖書によりますと、イエスは「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」「人に、ばか、愚か者と言う者は、人を殺す者と同じ裁きを受ける」と言っています。

 たしかに、法律は人の心の中を裁いてはいけません。誰かを憎み、それが高じて、殺したいと思って包丁を買っても、それを相手につきつけたり、ちらつかせたりしない限りは、罰せられてはなりません。

 けれども、憎しみが(きわめてごくまれなことですが)殺人の種になることがあります。人を差別する心はそれよりはもっと容易に暴言、暴行につながり、女性を見下す心理は簡単にセクハラ行為につながることでしょう。

 イエスは、わたしたちの中にある、人を殺したり傷つけたりする悪事の芽に気付かせてくれます。これは、殺人、傷害、傷つけを避ける、十分ではないにしても、有効な手段のひとつではないでしょうか。