「人生の後半戦とメンタルヘルス」(藤掛明著、キリスト新聞社、2016年)
ぼく自身は、自己肯定感が低く、その反作用として、承認欲求が強い人間です。それゆえに、「高い位置」に就いたり、「有名」になったり、「才能や実績」が認められたりすることをせつに願い求めてきました。
最初に入った大学を中退して別の大学に入り直したせいもあり、年齢の割に社会人として「遅れている」という感覚がつねにつきまとい、それを埋め合わせるために、「何才までに〜〜になる」などと夢見ていましたが、気が付けば、五十代後半。若いころからの空白を補うような仕事ができる年齢ではなくなりました。
「私たちは不完全な人間として、その都度与えられる情報や認識に誠実に応じながら、最善の自分の物語を紡いでいくしかないのだと思います。そして、いったん解釈した物語に縛られることなく、刻々とその都度、書き直していけばよいのです」(p.43)。
小中学校では優等生で、高校も進学校で、大学もまあ有名なところに入ったことで、自分の人生は「人より上を行く」と解釈してしまいました。それを早くに修整できず、ここまで引きずっているのですが、今からでも、何とか書き直していきたいと思います。
そして、できれば、「環境が変わらずとも、自分の実力が変わらずとも、今の自分のままで、すでに備えられている小さな喜びやささやかな希望を見出す」(p.47)という境地に達したいと思います。
今の職場は魅力的なところですが、高校生をふたり抱え、これからさらに進学するかも知れないという状況にあるぼくは、もう少し収入を確保したいと願ってきました。そのためには、高収入の副業をする、もっと収入のある職場に転勤する、宝くじに当たる、借金をする、といういくつかの選択肢があるのですが、最初の三つのような「環境変化」は願ってから何年経っても訪れません。文筆を副業にできないかと何年もブログやFacebookに書きなぐっていますが、原稿料付きの依頼はありません。自分の心を表わせるようになりたいと十年前からピアノを習っていますが、こちらも初級楽譜さえ卒業できません。
けれども、たしかに、見出そうとすれば、今の職場にも、この不安な家計にも、お金にならない物書きも、上達しないピアノにも、「小さな喜びやささやかな希望」があるのでしょう。
いや、そう言われてみれば、たしかにそのようなものを見出して、それを支えとして今を生きていることに気付きました。
下手なピアノでも、気持ちを込めて弾こうという意識をもてば、どこか変わってきます。