(42)「弱い人を助ければ、神さまにしたことになります」

 笠地蔵という日本のお伽話があります。貧しいおじいさんが笠を売りに出かけますが、ちっとも売れません。売れないと、年越しのお餅すら買えません。けれども、吹雪模様となり、あきらめて家路につきます。途中、七つのお地蔵さんが雪に晒されているのを見て、売り物の笠をかぶせて差し上げます。そして、おじいさんは家に帰ります。

 ところが、その夜、外でどかっと大きな物音がします。なにごとかと、表に出てみると、そこには、俵やモチ、野菜や魚などの食糧、さらには、小判などがの宝が山積みになっていました。誰がこんなことをと、目を上げると、頭に笠をのせたお地蔵さんたちの背中が雪道を遠ざかって行っていたそうです。この話は、もしかしたら、雪の中で凍えている子どもたちに笠をあげたら、お地蔵さんが代わりにお礼をしてくれた、と読むこともできるかもしれません。

 トルストイにも似たようなお話があります。靴屋のマルチンはある日、「あした、お前のところに行くよ」という神さまの声を聞きます。マルチンはいつかいつかと待っていましたが、神さまは一向にあらわれません。窓の外を見ますと、雪かきの人がとても疲れたようすでした。マルチンは中に招き入れ、温かなお茶をごちそうしました。でも、神さまはまだ来ません。また外を見ますと、赤ちゃんを抱いた女の人が震えています。マルチンは中に招き入れ、温かなミルクでもてなしました。でも、神さまはまだ来ません。また外を見ますと、男の子がおばあさんにひどく叱られていました。リンゴを盗んだのです。マルチンはそのリンゴを買って男の子にわたしました。でも、神さまはまだ来ません。

 その夜、マルチンは祈りました。神さま、お待ちしていたのに、お越しくださいませんでしたね。いつお越しくださるのですか。神さまはお答えになりました。いや、わたしはお前のたしかにおまえのところに行ったよ。お前は、お茶やミルクでもてなしたり、リンゴを買ってくれたりしたではないか。

 聖書によれば、イエスはこんなことを言っています。救い主が人びとに言います。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」(マタイによる福音書25章、新共同訳聖書)。

 自分たちはいったいいつ救い主にそんなことをしたのだろうと首をかしげると、救い主が答えます。「弱い立場の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだ」。