この二十年間、旧約聖書、新約聖書、イエスについて、専門家が一般読者向けに書いた本は、年に数冊ずつ程度だと思いますが、絶えず読み続けてきました。
ひとつは、趣味としてです。牧師は毎週日曜日、教会で人びとの前でお話(説教)をしますが、専門家による知識を噛み砕いて伝達することはほとんどありません。こうした本は直接説教には使えません。けれども、教会に来る人々に話すことはほとんどありませんが、大河ドラマの家康のように脚色されて聖書に書かれているイエスの「脚色前の姿」、聖書のイエスのもととなる歴史上のイエスや、諸学問を通してみると聖書にはどのようなことが見えてくるのかといったことには、趣味的な関心があるのです。
もうひとつは、「こうした本は直接説教には使えません」と言いましたが、間接的、かなり間接的かもしれませんが、そういう意味なら、学問の専門家による聖書研究も非常に有益です。趣味として読んだものが、学問レベルの記憶には残らず、秋の木の葉のごとく落ちてしまい、原型をとどめなくなり、朽ちていく。それが、教会で皆さんにするお話を考える肥やしのひとつになっていると思います。
この本もそういう意味で読んで、期待外れではありませんでした。1960年前後以降生まれの「若手」で(と言ってもわたしと同年代の方々もおられるようですが)、第一線の研究者たちが時間と労力をかけて、すばらしい本をわたしたちにプレゼントしてくださいました。この手のキリスト教書なら、4000円、5000円してもおかしくないのですが、3200円に抑えられています。ひじょうにお買い得です。
本書には、新約聖書を読み解くためのいくつかの学問的方法が初学者向けに紹介されています。本文批評、歴史的・批判的研究、社会史的研究、社会科学研究、フェミニスト批評、ポストコロニアル批評、正典批評はわかりやすかったのですが、修辞学批評、物語批評、スピーチアクト分析は少し難しかったです。この三つは、聖書解釈への適用にもっと紙面を割いていただいた方がよかったと思いました。その前提となる、その研究法の(聖書以外にも適用される)一般的な理論概論のところはほとんど消化できませんでした。それでも、青葉のまま落葉して土壌になるかも知れません。
前の段落で列挙した「批評」「研究」のそれぞれがどういうものかは、この本を読んでください。
ぼくはなんとか読了しました。楽しい趣味の時間を過ごせました。そして、これからの、毎週の日曜日のお話を準備するとき、つまり、聖書を読んで、なんとかメッセージを受け取ろうとしたり、人びとに話すことを考えたりするとき、どの批評だったか、どの研究だったか、ほとんど意識されなくても、勝手にその方法もどきを使ったり、その研究成果を換骨奪胎してしまうかもしれませんが、それでも何らかの形で利用したりするでしょう。
最後に、上村静さんのような旧約、新約を貫いて批判的に研究する立場は、本書にしたがえば、どの研究法に位置づけられるのかなとふと思いました。