(20) 「世の中には、もうひとつ、気づかない側面がある」

どくだみは、匂いが独特できつかったり、暗くじめじめしたところに繁殖したり、抜いても抜いてもまた生えてきたりで、鼻つまみ者のイメージがあるも知れません。けれども、初夏には、質素で真っ白でかわいい花の群れを咲かせ、それに気づく人々の目を休ませてくれます。

何人もいるうちのひとり、ふたりから嫌な目に遭うと、その人びと皆が自分を嫌っているように思えてしまうことがあります。ところが、じっさいは、そんな人はひとりかふたりで、あとの98~99人は、こちらのことをとくに悪く思っていない人だったり、なかには、良く思ってくれている人もいたりするかも知れません。ここはたしかにつらい場所なのですが、同時に、楽しい場所であったりもします。

嫌なことや不快なこと、苦しいこと、腹が立つことなどは、とても大きく見えますが、けれども、じっさいは、それ以外のことの方がもっと大きい場合もよくあります。

たしかに、あたりは真っ暗闇です。でも、そこに、ほんの一本だけかも知れませんが、ろうそくが灯っていないでしょうか。千年の暗闇に、一点の光が射していないでしょうか。まわりは毒蛇ばかりと脅えてしまっているとき、良く見たら、半分は花畑だったということはないでしょうか。

あと十分しかないけれども、もう十分もある。もう千円しかないけれども、あと千円もある。世の中は、ひとつの面だけでなく、気づかない面もあり、それらが重なりあっているのかも知れません。

聖書によれば、イエスは「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言いました。あるいは「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」と。死後の世界やオカルトのことではありません。

エスは、この世界は人間の世界、人間が支配し、人間の行動や考えで動いている世界である、つまり肉の世界であるけれども、そういう側面だけでなく、もうひとつの側面がある、いや、もっと本質的な側面がある、それは、この世界は神によって創造され、神によって根底を支えられ、また、神の愛のまなざしを向けられているという霊的な側面があるということです。

聖書は、神のフシギについても語っていますが、ほんとうに伝えたいことは、神のフカミではないかと思います。霊とは、フシギではなく、フカミなのです。

わたしたちが生きる人間世界は楽しくもあり苦しくもある、けれども、その根源、深いところには、神の霊、すなわち神の息吹であり命が、心臓のように脈打ち、泉のように湧き出ている、それに気づこう、と、イエスは促しているのではないでしょうか。