「自閉症者の魂の軌跡 東アジアの『余白』を生きる」(真鍋祐子、2014年、青灯社)
著者の少女時代から東大教授の現在まで。自閉症者の物語。本人は「ロードムービー」つまり「何人もの死者とともになした思索の旅の軌跡」(p.324)と称しています。
とてもおもしろいし、共感したし、テンションがあがったし、でも、難しくて頭が動かなかったところもありました。幼少期からの個人史や家族やイタコを訪ねた話、学生から教授になるまでシャーマン研究などにまつわる様々な事件や意識の変遷、人文科学・社会科学系の学問的記述などが、味わい深くブレンドされています。わからないところは、ラインマーカーを引き、再読してもまだわからないところは、わかったつもりにせず、『余白』のままにしておきました。
真鍋さんは、教師や研究者や牧師たちから抑え付けられたことだけでなく、どうじに、ご自身が研究の対象とする人々や後輩信徒を抑え付けたこと、また、知人や家族に負い目があることをも記しておられます。自分が被害者であるばかりでなく、加害者であることも認識している、いや、それを土台として、韓国で正義を求めて死んで行った「烈士」たちの研究をしておられます。この姿勢をぼくはとても信頼します。
けれども、その研究は、第三者として客観的に、言い換えれば、他人事として記述することではありません。真鍋さんは祈ります。「虚心坦懐に死者たちのことを知ろうとする努力を続けさせてください。そして、論文を書くことによる見返りを求める一切の私心を、自分は優れた研究者、文章家だと慢心する一切の傲慢を、この私の心から取り除いてください。これから書こうとする私の文章の一切から『私』をそぎ落させてください」(p.303)。
ぼくにはこの祈りが欠落していました。けれども、「選択的な聴覚刺激を処理する力は乏しい」(p.24)とか、「貴意に沿えず」の「熨斗(のし)紙」(p.76)をつけて返送された応募書類が数十にのぼるとか、重なる部分もありました。
ならば、同郷、同世代の真鍋さんの、以下のくだりにも重なりたいものです。「『最悪』だからこそ、当たり前と観念された世界に『余白』を見いだすことができる。『最悪』でなければ、自明性の世界に楔を打ち込み、その狭間――『余白』から、誰も見たことのない景色を眺望することはできないのだ」(p.324)。