215 「ピアノを弾くとはこういうことだったのか」

「左手のコンチェルト 新たな音楽のはじまり」(舘野泉、2008年、佼成出版社)

 ピアノの先生からいただいた一冊。先生の願いは、ぼくがこの本を読むことだけではなかったと、のちに気づきました。

 舘野泉。ヨーロッパ、日本で演奏する第一流ピアニスト。東京芸大首席卒業。フィンランドに何十年も住む。66歳、脳溢血で、右半身不随になるが、二年後、左手による演奏会で復帰。

 泉さんがお父さまに教わったこと。プロとして演奏するとき、深い教養、真の知識、人びととの友情を身に着けてきたかが問われると。ぼくの仕事も同様だと思います。どれも不十分だけど、問われることには、すこしでも答えられるようになりたいものです。

 泉さん、曰く、音楽は呼吸、「光と影」。音色は光と影のように刻々と変化する。ぼくも、呼吸のように、陰影のように、言葉を紡ぎたい、語りたいものです。

 曰く、千回に一度くらいだけど、コンサートの中で、弾いている自分も、客もいなくなってしまうような静けさが漂うと。それはまさに神さまからの贈り物に違いありません。ぼくは、完全な沈黙ではないけれども、その相似形というか、数歩手前からなら垣間見たことがあるかも知れません。

 フランスの作曲家、セヴラックについて。「ただ静かに終わるというだけではなく、すべての思いが静けさのなかに帰っていくという感じがするのです・・・すべてのものが大地に還ってゆき、そしてまた新しく生まれ変わるという精神があるように思います」(p.124)。

 この本は、右手を失ったピアニストが左手一本で復活した、左手だけでもがんばれるというお話しではありません。「左手だけになって不自由や不足もないし、音楽の表現をするのに、なんの不満もありません。左手だけでは表現できないということは何もないのです・・・たしかに、現実には演奏できないけれど、いままで弾いてきたものは、自分の血となり肉となり呼吸となって、脈々と息づいているのです」(p.182)。

 「指で弾くものではありません。身体全体を使って弾くのです。呼吸が全身を楽に回っていなければなりません。どこかが硬くなってもよくないのです。力はお腹の中心部にあればいいのです」(p.185)。これも、応用が聞きますね。立つこと、歩くこと、話すこと、書くこと、読むこと、歌うこと、祈ること・・・

 裏面いっぱいに鮮やかな色を使い、表面に反映させ、微妙な色の影を織りなすタペストリーの「隠し色」。音楽も同様で、「生きることの悲しみや苦しみが、まるで『日常の友』のようになってくる」(p.192)。言葉も、絵も、写真も、表情も、しぐさも皆そうかも知れません。

 ところで、ぼくは五十の手習いで6年前からピアノを習っていますが、いまだに初級楽譜。譜読みも指運びもままなりません。けれども、ピアノを弾くには、もっと大事なことがありました。それは、良い演奏を聴くことによってしか、わからないことだったのです。

 ぼくは本を閉じて、Youtube で検索し、舘野泉さん奏でるカッチーニアヴェマリアを見つけました。ああ、ピアノを弾くとはこういうことだったのか。CDを注文、弾くために、聴きましょう。万年初心者のぼくのピアノを弾く想いが変えられていく予感がします。

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