「それでも僕は夢を見る」(水野敬也作、鉄拳画、文響社、2014年)
お風呂屋さんの脱衣所、病院の待合、食堂、ネット喫茶で読むのが良いです。
あの交響曲と同じように、新聞の広告を見て、感動を求めて、買ってしまいました。
でも、何か良いところを見つけたり、この本を読んで何かを考えたりしないと、もったいないので・・・
まず、夢ってなんでしょう。
この本では、第一志望の大学に合格すること、好きな人にふりむかれること、やりたい仕事につくことなどが出てきます。
たしかに、ぼくも、そのときは、それを望んでいました。でも、それは、願望であっても、夢だったのでしょうか。
今のぼくにも願望はありますが、それは、もっと良いポジションに着くとか、お金の余裕のある生活をするとか言ったことで、夢とは言えません。
夢とは、たとえば、ジョン・レノンがイマジンで歌ったり、マルチン・ルーサー・キングがI have a dreamというスピーチで語ったりしたようなことではないでしょうか。
今の世界で言えば、日本から原発がなくなり輸出もしなくなり、安全なエネルギーに切り替わるとか、福島の人々に少しでも希望が見えるような状況ができてくるとか、分断された者同士が違いを認めながらも交わり支えあうとか・・・
ぼくの残りの人生も、そういう夢とともに歩むものにしたい、それが夢かもしれません。
この本のことに戻ると、受験も恋愛も就職もうまくはいかなかったけれど、そのころは輝いていた、という指摘は、良いなあと思いました。当時は、悔しさが先立っていましたが、たしかに、あの頃は、あるいは、あの頃も、輝いていたと、今振り返って思います。
それから、誰ともわからぬ誰かに、自分の人生の何かを残す、という考え方にも、そうだなあ、と思いました。この文章もそうですが、ぼくは、ここ数年間、ネット上のあちこちに書き込みまくっていますが、それがめぐりめぐって誰かに読んでもらえ、その人にとってほんの少しかもしれないし、一瞬のことかもしれないけど、おもしろいとか、なるほどねとか、そうじゃないよとか、その人に何かの作用をもたらすかも知れません。それが、あて名のない手紙であってもよいと。
もうひとつ。何かを始める際に、成功するかどうかだけを気にしている、という指摘。そうですね。成功・不成功より、一所懸命にやる、心をそこに注ぎ込むことが、たしかに大事だと思います。
あれこれ考えないで、打ち込むべきことってあると思います。打ち込みながら、深く考えるべきこともあります。あれこれ考えることと深く考えることは違いますよね。
夢を見るとは、考えることと打ち込むことが区別されない歩みのことでしょうか。