「ゼツメツ少年」(重松清、新潮社、2013年)
その空間の全員が、薄ら笑いを浮かべながら、ぼくを包囲し、こづきまわし、足蹴にし、論理も倫理もない、ただ群れの腕力だけによる、見せかけの屁理屈で、ぼくをなぶりものにし、それが、どこでもどこまでも続けられる。
町や村や軍隊や城や牢獄で、人間集団の歴史上、この種の暴虐はけっして絶えたことなどなかったでしょうが、前世記後半、学校でもむごいこれがあると気づかれたとき以来、「いじめ」という名詞形が良く口にされるようになりました。
この濁流によって、家族に先立たれたり、あるいは、自分も後を追ったりせざるを得なかった人たちに、文学は何ができるのでしょうか。
この小説は、絶望のうちに旅立ったように見える死者たちに、けっして安易にではなく、ぎりぎりのところで、一縷の、あるいは、もしかしたら最高かも知れない希望を届けようとする試みだと思います。それとともに、生者たちにも、あらゆる大事なことの中でも、あまりにも根本的過ぎて、言葉にもされ忘れることさえある伝言を伝えています。
しかし、それは簡単なことではありません。生と死、現実と空想が重なるこの小説の構造は、少し複雑で、かならずしも明確ではないのです。(かと言って、けっして読みにくいわけではありません。重松さん特有の子どもの語りは健在です)。けれども、空間が単純で一つしかなければ、逃げ場がまったくなくなってしまうでしょう。世界は一重ではなく、いくつも折り重なっている、これが希望なのです。
このように空間がやや難しく重なりあう中で、とてもわかりやすい希望も描かれています。「早く続きを話せ」と急かさないで聴いてくれるおとな。「きみのつらさを、わたしは知っているよ。だから、無理しなくていいよ」と言ってくれる人。
そして、先立った人をひとりぼっちにさせまいと、想像力で文字をつづる作家。
イジメは卒業すれば終わる。終わっても学校生活はやり直せない。けれども、死なないでいれば、おとなになって、親になる者もいる、うちの子がそうだ、と語る、もうじきおじいさんになるお父さん。
こうしたことに加えて、文学そのものが希望の作業だと著者は示唆しています。文学の役目は、生き残っている者の役目は、死者たちの生にあった大切な意味を探し求め、見つけ出し、語ること、これがほんとうの希望ではないかと。
また、絶望一色だったとしか思えない死の間際にさえ、じつは、死者は希望を抱いていたのではないかという思いを重松さんは、家族や第一発見者たちの言葉に託しています。追い込まれた死の美化、と誤読される恐れを顧みずに。「あの子は飛べると思ってしまったのだ」。「ケガや出血の様子は、もう忘れたよ」。これだけでなく、さらに心を打つ詩のような言葉が登場人物に委ねられています。
ところで、川や海、豪雨など、水が出て来るこの小説は、少し形を変えたポスト3・11文学のようにも思いました。(大幅加筆修正はあったものの、雑誌連載は大震災以前ですが)。
イジメのむごたらしさ、大震災、大津波、原発事故の引き起こした大惨事。その圧倒的絶望。絶望的圧倒。逃げ場のなさ。
けれども、そのままでいいのか、絶滅、完全なる虚無に陥ってしまって良いのかという作者の問いと応答が聞こえてきました。