171 「聖書の言葉にじっと耳を傾け、それにこたえて祈る生活」

 「教会づくり入門」(榎本保郎著、教文館、2013年新装第1版)

 オリジナルは四十年前。タイトルは「教会づくり」だが、中身は「信仰生活入門」。教会にもっと多くの人を集めるヒントを、などという、ぼくのさもしい考えを見透かされたようです。たしかに、ハウ・ツーよりも、すでにそこに集っている者の信仰のあり方が大切です。

 主イエスはわたしたちの信仰という岩の上に教会を建てると榎本先生は言われます。

 では、信仰、あるいは、信仰によって生きる、とはどういうことなのでしょうか。それは、なによりもまず、聖書の言葉を神の言葉、つまり、みことばとして読み、それに従って生きることだと言います。その例として、マルタの姉妹マリアを挙げています。マリアはイエスの言葉を直接聞いたのですが、今自分の語りかけてくる聖書のみことばにひたすら耳を傾ける姿をも示しているのです。

 けれども、聖書は一言一句間違いない、などとは著者は述べていませんので、その傾向はあるとしても、ファンダメンタル一色とみなすべきではないかも知れません。ぼくは、ファンダメンタリストではありませんが、聖書の言葉に自分の中にはない神さまの声を聴こうと、じっと耳を傾けることは大切にしたいと思っています。

 榎本先生は、祈りは神との対話ではなく、応話だと言います。祈りはみ言葉による神さまの語りかけに対する返答なのです。そして、迷った子どもが父の声を聞いて、「お父さんわたしはここにいます」と返答することが祈りである、という、神学者ブルンナーの説明を挙げています。

 祈りがみ言葉への返答ならば、ぼくたちは、もはや、祈りに困ることはありません。ぼくはここにいます、そして、今、あなたのこういうみ言葉を聞きました、というように、たった今聞いた聖書の中でとくに心に触れたみ言葉を反復すれば、それはもう立派な祈りではないでしょうか。

 「〜しなさい」という聖書の言葉も、応答を促す語りかけだと榎本先生は言います。このようなみ言葉の捉え方には、守れば救われる、守らなければ救われない方式より、ずっと深みがあるのではないでしょうか。

 祈りとみ言葉は密接な関係にあります。

 榎本先生は、ある葬儀の時に、自分の用意した説教ではだめだと思い、「主よ、わたしにあなたのみことばをください。あなたしか、この悲しみのなかにある人たちを慰めることはできません」(p.19)と祈ったそうです。祈りによってみ言葉を求める、み言葉を求めて祈るのです。

 けれども、「神の語りかけを聞かずして、わたしたちは祈りをささげることはできない」(p.107)とも述べておられます。み言葉を聞いてから、祈るのです。祈る前に、み言葉に聴くのです。

 み言葉をあたえてください、語りかけてください、と祈り、み言葉に聴き、そのみ言葉に応えて、わたしはここにいます、あなたはこう語ってくださいました、と祈るのです。

 72年当時の状況を反映して、社会問題に対する理解には疑問がありますが、読んでよかったと思いました。

 活版印刷なのか、それを写真に撮った印刷なのか、印字になつかしい香りを感じました。

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