「ガリラヤとエルサレム 復活と顕現の場が示すもの」 (E. ローマイヤー著、辻学訳、2013年、日本キリスト教団出版局)
イエスという人物に宗教的な意味と役割を与えたうえで中心に位置づける共同体を教会と呼ぶとすれば、二千年前の当初から、教会は一つではなかった。また、その意味や役割も一様ではなかった。本書をこのようにまとめてみた。
聖書学の学術書であり、緻密で、やや煩雑なところもある議論が展開されているが、幸い、訳者が後書きに次のように記してくれている。
「・・・この対比をローマイヤーは、ガリラヤ教会とエルサレム教会という、原始キリスト教の中に二つの中心が存在したという仮説へと発展させる。前者は主の兄弟および親族が核となり、後者は12使徒(とりわけペトロたち「3人」)を核とする。ガリラヤ教会は「人の子」キリスト論に立ち、終末時に「人の子」が来臨するのを待望していたが、後者は「メシア」キリスト論に立脚し、聖霊体験を重んじていた。そうローマイヤーは考える」(p.147)。ここを先に目を通してから、全体を読み始めたおかげで、少し楽をさせていただいた。
訳者は80年近く前のこの二教会中心説が今日では受けいられるものではないことを確認したうえで、なお、「キリスト教はその最初期から、多様な理解を包み込んだ運動であった」(p.152)ことを聖書から発見した著者の功績を高く評価している。
ローマイヤー自身も明記している。「一つの統一的な見解から、また一つの聖なる町から育った、一つのユダヤ人キリスト教的な原始教会なるものは存在しなかった。初めから原始教会の中には種々の流れが生きており・・・」(p.137)。
ガリラヤ教会=「人の子」キリスト論とエルサレム教会=「メシア」キリスト論の二源流という説にはもはや説得性がなくても、最初から多様な教会があった、というローマイヤーの気づきには今なお大きな意味がある。とくに、多様性を否定し、正統でないとされるものを排除するという歴史を反復しつつある現在のキリスト教会において。
ところで、二教会説の構想や基本的な論証はおもしろく、わかりやすかったが、それを補強するための議論は、二教会説を前提としてしまったところから、後付で整合性を主張しているようにも思えて、そのせいか、煩雑で難しく感じた。緻密な議論なのか、上塗りをしすぎているのか。
けれども、そもそも、緻密な論理展開ですっきり解ける数学の問題のようなものとして、聖書という歴史テキストは存在しているのだろうか。そうでないものをそうしようとすると無理が生じる。
聖書学の本の魅力は、問いのおもしろさ、大胆な構想力、無理のない範囲での緻密な推論にあると思う。