「死者と生者のラスト・サパー 死者を記憶するということ」(山形孝夫、2012年、河出書房新社)
学問と、その背景にある、人生の歩みと精神の旅が、これほど詩的に絡み合い、読む者の心をこれほど酔わせる書を、ぼくはほかにあまり知らない。酔いゆえか、すべてはつかむことはできない。いや、死者の声を聴き、ともに食卓に着き、死者の記憶の森を旅する山形さん自身が生者でありつつ同時に死者でもあるからなのか。
聖書学者・宗教学者でもある著者の人生の時計が進むにつれ、舞台は東北、アメリカはミシシッピ、そして、レバノン、エジプト、ギリシャを含む東地中海へと移る。けれども、ときおり、突如時計が逆行し、風景も巻き戻される。これは、異界への旅、あるいは、すでに異界の旅なのかもしれない。
幼いころの母の死、高校生の時の聖書との出会い、苦痛の貨車で運ばれ続ける黒人教会の礼拝者たち、そして、エリヤやイエス、モーセの生きた世界、今そこに生きる修道士や司祭。
黒人教会で聞いたゴスペルの一節。「ああ、あの列車で私の母さんは運ばれていった・・・ああ、こんどは妹が運ばれていく」。誰かに抱かれた母の遺骨とともに墓地に向かったこと、そのすぐあとに、今度は妹が運ばれていった記憶が駆け抜ける。黒人教会の記憶と山形さんの記憶が重なる。
モーセが流されたナイル河の岸辺の葦原で、よしきりが鳴くのを聞いた。母の死後、一年経ったとき、父に連れられて釣りに行った仙台湾近くの葦の海が現われる。そこでも鳥がギョギョシ、ギョギョシと鳴いた。「父さん、あれ・・・・・」「あれか、あれはおおよしきり・・・・・」
イエスは弟子たちに言う。「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」。母が死んだ悲しみの風景が現われる。死者はほんとうによみがえるのですか。
アテネで飛び込んだ教会。正教の司祭からいつのまにか二人きりの聖餐式に招き入れられる。聖杯のぶどう酒を交互に飲む。司祭が言う、「こんどは、あなたの死者のために・・・」。母の名を告げた。自死したことも。母が涙を流しながらかたわらを歩いていく。母に声をかけた。母が小さくうなずく。その目には涙が満ちていた。司祭の読むイザヤの言葉が聞こえる。「そのとき、見えない人の眼は開かれ、足の不自由な人は、鹿のように跳び走る」。
なぜ死者の記憶なのか。絶望を押し返すには、死者をつねに覚え、その記憶から意味を引き出し、それを積み重ねる他にしかないからだ。忘れ去られようとする者を忘れまいとする闘いだけが、わたしたちの魂を深いものにしてくれる。著者は死者とともにそう語りかけている。